COSMOS さんのプロフィール
- 2024/04/28 黒部
- COSMOSさん おはようございます。「桃の花」に拍手をありがとうございます。この時期の福島はあたり一面桃色の海とでもいうのか、圧巻でした♪
- 2024/04/28 四つ葉
- 沢山の天神さまと可愛いりんごの花‥♪に拍手ありがとうございます。余りにも天神様が多く飾られて驚きでした。りんごの花可憐で可愛いかったです。
- 2024/04/27 四つ葉
- 庭を見ながらシニア女性の方と話しをと染飯(そめいい)のおにぎり♪に拍手ありがとうございます。我が家の庭を見て立ち止まってみてくれた女性と話しが出来て嬉しかったです。
- 2024/04/26 湯好屋三助其の2
- 笑ってるパンジー写真に拍手有難う御座います。
ギャラリー作品一覧
No | 4411 |
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作品名 | 忠臣蔵26 |
説明 | 墨田区両国の両国橋東詰の公園の一角に赤穂浪士のひとりであり、室井(榎本)其角の弟子と伝える子葉こと大高源吾の「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑があります。 赤穂浪士の一人であった大高源吾は、吉良邸の動向を探るため吉良家出入りの茶人・山田宗偏に入門し、12月14日に吉良屋敷にて茶会が催されることを突き止め、この日が討ち入りの日となりました。 本懐を遂げた後に作ったと考えられるそうです。 |
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No | 4412 |
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作品名 | 忠臣蔵25 |
説明 | 港区泉岳寺に堀部安兵衛の墓があります。 安兵衛と叔父の義理を結んでいた菅野六郎左衛門が、高田馬場で果し合いをすることになり、助太刀をした安兵衛は、相手方3人を斬り倒した。 俗に言う「高田馬場の決闘」で、この決闘で安兵衛の武勇は、江戸中で有名になり、これを知った赤穂浅野家家臣・堀部弥兵衛が、安兵衛との養子縁組を望んだ。 安兵衛は弥兵衛の娘と結婚して堀部家の婿養子となり、浅野家の家臣になった。 |
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No | 4413 |
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作品名 | 忠臣蔵24 |
説明 | 港区泉岳寺に大石内蔵助の墓があります。 泉岳寺境内の右手に立つ大石内蔵助像。連判状を手に東の空をじっとにらんでいる姿になっています。 47名の赤穂浪士は細川越中、水野監物、松平隠岐、毛利甲斐の四家に分散してお預けとなり、翌年2月4日に切腹となりました。 そして希望どおり浅野家の菩提寺であるここ泉岳寺に葬られました。大石内蔵助の戒名は「忠誠院刃空浄釼居士」です。 |
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No | 4414 |
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作品名 | 忠臣蔵23 |
説明 | 泉岳寺内にある首洗い井戸です。 赤穂義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれているそうです。 |
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No | 4415 |
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作品名 | 忠臣蔵22 |
説明 | 再び泉岳寺です。 赤穂義士は元禄16年2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されました。 ただし間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。 また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑶泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のち江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で83才の天寿を全うしました。 現在も曹渓寺に眠っています。 |
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No | 4416 |
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作品名 | 忠臣蔵21 |
説明 | 港区三田にある寺に荻生徂徠の墓がある。 各藩にお預けの身の間でも、幕府では同情する意見も多くあり、様々な議論が交わされた。 学者荻生徂徠は赤穂事件に対し「忠義を重んじる武士道をまっとうした事は評価されても、幕府の法を侵し徒党を組んで飛び道具を持ち、押し込みは重々不届きである、よって切腹を言い渡すべきである」と、この意見が通り翌年2月4日、各藩邸において武士としての面目を保ち切腹したのです。 |
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No | 4417 |
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作品名 | 忠臣蔵20 |
説明 | 港区芝にある三河岡崎藩・水野家の中屋敷があったところです。 吉良邸討ち入り後も、神崎与五郎、矢頭右衛門七ら赤穂浪士9人をこの中屋敷に預かり、水野家では「義士」として丁重に扱ったといわれています。 もうひとつの松平家は現在はイタリア大使館になっています。 4家の待遇の違いに「細川の水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌に歌われました。 |
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No | 4418 |
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作品名 | 忠臣蔵19 |
説明 | 港区高輪にある肥後熊本藩細川越中守江戸中屋敷跡です。 ここは、討ち入り後幕府により、大石内蔵介ら17人の義士が細川家にお預けなり切腹を賜った場所です。 細川藩は、彼らを忠義の士として遇し、預けられたことを家の名誉として切腹の場を保存してきました。 一方で、六本木ヒルズにあった毛利支藩の長府藩では、赤穂義士を犯罪者として厳しく扱った、との逸話も残っています。 |
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No | 4419 |
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作品名 | 忠臣蔵18 |
説明 | 泉岳寺は港区にある寺院です。 やっとの思いで泉岳寺に到着した浪士一行。 主君の墓前に吉良の首をそなえ、あだ打ちの報告を済ませました。 主君の墓へ詣でた後、寺僧たちから粥や酒の接待を受けたといいます。 寺坂吉右衛門は討ち入り後、内蔵助の密命を受け、広島の浅野本家へ事件の報告のために 一党を離れたと言われています。 この後浪士達は仙石伯耆守屋敷へ向かいます。 |
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No | 4420 |
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作品名 | 忠臣蔵17 |
説明 | 港区虎ノ門にある日本消防会館にある仙石伯耆守(ほうきのかみ)邸跡です。 上野介の首を打ち取った義士たちが泉岳寺へ向かう途中、大石良雄は吉田忠左衛門と富森助右衛門の両名を大目付仙石伯耆守邸に自首させました。 「義士洗足の井戸」がビル内にモニュメントとして再現されています。 |
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