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such is life
お天気屋さんへ
2018年05月22日
テーマ:such is life
世間の人間関係はややこしく難儀なものである。
気分が変わりやすい人を「お天気屋」という。
これは精神医学でいう躁鬱気質とはちがう。
躁鬱の知人がいたが、この人はむしろ社交的で他人との間にわけへだてをおかない気質である。
爽快なときは耳元で小鳥がさえずっているように気分がいいそうで、
ときに憂鬱に傾くが、そういうときは周りに迷惑をかけることをおそれ、「きょうは少し鬱でね」と、予告してくれる。
お天気屋はというと、自分に好意をもってくれている人や、自分の「いいところ」に理解をもってくれて人をずるく見わけている。
そのくせ、そのような「善なる他者」に対して、気分しだいで、わざと差別的に冷たくふるまったり、ときには、理由なく鎧戸を下ろしてダンマリをきめこむ。
お天気屋は理由を言わず、「察しなさい」と言わんばかりの態度をとる。
ぼくは理由をあれこれ内省し、理由が想像できないときは、なんともやりきれない疲労に襲われる。
これは「煉獄(れんごく)だ」
仏教には極楽と地獄があって、中間の煉獄はない。
しかし、日曜の礼拝に通った頃に知ったが、カトリックには中間の煉獄がある。
天国にも地獄にもゆけない霊魂は死後、罪が浄められるまでのあいだ、拘置所のような煉獄にとどまる。
余談になるが、旧ソ連の作家ソルジェニーツィンの小説に『煉獄のなかで』がある。
煉獄を辞書で調べると、ピュアが語根になっている。
つまり繰り返しになるが、煉獄とは浄めの場所のことである。
浄めの場所といっても、火にあぶられたりする点では地獄とかわらない。
ただしかし、有期刑ということだけが救いである。
つまり、いつかは天国にゆける。
ちなみに煉獄に落ちいるのは、地獄へゆくほどでもない小罪をおかした霊魂である。
お天気屋と知り合った場合も、煉獄に入れられたようなものである。
煉獄に収容中の霊魂はつねに、内省を強いられれ。
(ぼくはこの人に対していったい、どんな罪をおかしたのだろう)
ぼくはその小罪が思いあたらないものだから、とても苦しむことになる。
煉獄の苦しみとは、罪が思いあたらないことである。
このナビも「世間」と同じで、人間関係か難儀なことが、ときどきある。
かつて職場にお天気屋がいた。
お天気屋に理由などはないらしい。
職場のお天気屋の場合は、お互いの転任や退職などによって、やがて有期刑とし終わるはずなので、そう思って自分を慰めていたものである。
こうしたナビでは退会しかないのだろうか。
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