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such is life
好き
2018年05月08日
テーマ:such is life
人を好きになったことがある。
「好き」という感情が芽生えたのは、思春期のいつ頃のことだろうか。
「好き」という感情は、刃の上を素足でわたるように、きわどいこともあるが、いくつになっても、わき上がってくるものであろう。
「好き」を認める精神は、儒教にはなかったという。
「好き」が是認されたのは、室町の世であるらしい。
といっても、色恋のことではなく、茶の湯などをさした。
道具に凝り、高価な茶碗などを買い、武士ならば奉公をしくじり、商人ならば店を手放すほどのモノ狂いのことをいった。
ということは、地獄と極楽の境の薄い塀の上を歩くようなものであろう。
そのために、好きという言葉に「数奇・数寄」という漢字があてられた。
数寄(すうき)という漢字は、きわどい。
数が運命をさし、寄は不遇を意味する。
これほどおそろしい文字を、ことさらスキと読ませたあたり、室町びとは、きびしい。
「亭主の好きな赤烏帽子(あかえぼし)」
よく知られているが、あらためて。
室町に「数奇」の心をもった大名がいた。
烏帽子は、黒にきまっていた。
あるとき、その大名は妻に赤い烏帽子を作らせ、
こともあろうに、赤烏帽子をかぶったまま、殿中にまかりこした。
殿中では服制は礼の基本である。
ひとびとは、仰天させられた。
むろん、大名は切腹を覚悟で赤烏帽子をかぶり、将軍の前に出たのである。
将軍はどうしたかというと、将軍はその大名の覚悟と数奇の心をよしとして、そのきわどい行為をゆるした。
数奇は、アートと創造の気分をももっている。
ただし、自分の身を破ることがあっても、他の人に迷惑をかけることはない。
暴走族や、繁華な街のなかでとぐろをまいているのは、カッコいいと思っているだろうが、すこしも数奇ではない。
さらに考えると、ときどき新聞をにぎわす色情によるトラブルや、セクハラも数奇ではなく、品下がりものである。
といっても、ときに色情が高度に昇華するとアート、芸術になる。
このサイトに書いたり、俳句を作ったり、物語を創作することなどは、さまざまな欲望を昇華させることになっているはずである。
このナビで、チンピラがイチャモンをつけるように、他の人を誹謗中傷したりするのは、数奇ではない。
そういう人は、切腹覚悟の赤烏帽子を見ならってほしい。
そのほうが、浮世はたのしい、うれしい。
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好きは日常に溢れていますが
「好き」の語源が
こんなにきわどかったとは・・
地獄と極楽の境の薄い塀の上を歩くようなもの
言われてみると納得します。
その危うい感覚は色情につながりアート・芸術に昇華する。
そしてなにより、潔さが必要なのですね。
2018/05/08 21:39:29
好きは
「好き」は今・・どうしても伝えたいような我儘でなく
口紅で色をのせていく際に、どこが…清楚か・・どこが…魅惑的か
その濃淡のはざまで迷ったり。。
信号待ちの僅かな時間に…つま先立ちしたくなったり。。
気持ちを、、心を・・右に…左に、、揺らしてくれます。
2018/05/08 07:58:35