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俳句にはなぜ季語が
2018年04月19日
テーマ:俳句
俳句には「有季定型」という最低限のルールがある。
これは、季語を入れ、五七五の17字で詠むということである。
季語を考えたい。
私たちは、たとえば、春になれば雛(ひな)を飾り、桜を愛で、道明寺や草餅を食べ、春の訪れを五感を通して感受する。
私たちは、意識しなくても、このように「季語」とともに暮らしている。
季節の移ろいとともに生きてきた日本の人は、五感のすべてを使って四季を愛で、親しんできた。
どんな時代も、たとえ戦時下であっても季節は巡った。
春になれば、焦土から菜の花が咲き出で、夏には蛍が、秋には全山紅葉したでしょう。
そう考えると、先人たちの喜怒哀楽、さらには美意識や情趣などが季節とともにあっただろう。
それらは、現代の私たちにとっても共通の認識で、現代の生活にもぬかれているであろう。
その共通認識を担っているのが季語といえる。
ですから、たとえば、桜、新緑、母の日といった言葉を聞くだけで、心に浮かぶ共通の情景や情趣がある。
これをふつう「季語の本情」というそうだ。
だからこそ、たった17音でも成立するともいえるだろう。
多くをかたらずして多くのことを伝える役割を担っていることになるだろう。
病室の窓叩きつづけ春荒るる
風来
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