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♪HAPPY LIFE♪

義兄からの手紙 

2014年07月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

今年2月にあった義姉の3回忌の後に、小さな写真集を作った。





自身の病気のために義姉のお葬式や法事に出席出来なかった義兄が
私の友人たちの手助けで作った義姉のメモリアルボード
を後日見た時、これを写真にできないかな〜
と言っていたので、何かの形で作りたいと思っていたので・・・


そのアルバムを見た義兄はとても喜んでくれ、色々な思いがいっぱい詰まった手紙を送ってくれた。


その手紙より一部抜粋・・・

「思い出の写真アルバム」ありがとう。
このアルバムは私自身の思い出アルバムでもありますね。
戦後、家庭が貧乏で食べることがやっとの時代、周囲の暖かい励ましに助けられた時代でした。
姉は一生懸命に夜遅くまで働き私たちの生活を支えてくれました。
大阪で最愛の夫と結婚し、年に一度は旅行するなど幸せな時代もありました。
その最愛の夫の腎臓にガンができ、医師から余命数ヶ月と診断され、姉は悲しみの
どん底にたたきつけられました。入院していた病院の屋上から飛び降りてしまおうかと
何度も思ったそうです。この入院の時期から私が姉の手助けをするため1週間のうち半分を
泊まりに行き、姉の家から仕事に出勤する生活が始まりました。
〜〜〜〜
姉は過去に外科手術を受けており、その際に輸血がなされたことによって、C型肝炎になり
徐々に肝硬変が進行し、さらには肝臓にガンが出来て入院しました。ガンは除去されましたが
肝硬変はさらに進行していきさまざまな合併症が出てきました。

この時期から亡くなるまでの10年間は入退院を繰り返し、病魔との戦いでした。でも弱音をはかず
いつも明るく見せていました。
姉の最期は40年前からお世話に」なり、父や母もお世話になった〇〇会病院の院長の
ご配慮で1年数ヶ月間続けて入院させていただきました。
姉はどこの病院に行っても人気者でした。
医者、看護師さんをはじめ入院患者のみんなに慕われました。しかし人一倍気遣いの人で
どんなに苦しくても弱音をはかない頑張り屋さんでした。
どんなに苦しい時も我々のことを気遣い明るく振舞っていました。

私が最期を看取ってやりたかったですが、私自身がガンになってしまい姉に最後まで
心配をさせました。
私が入院する前に「ちょっと検査入院で行ってくるわ」と声をかけましたが、
姉は私が重い病気にかかっていると察して「長い間 ありがとうね」と別れ際に
声をかけて私の手を強く握りました。姉は私の体のことを一番心配していたと思います。

姉の最期を看取る大役をそして葬儀まで〇和や〇美さんに頼み私も大変心苦しく
思っていました。〜〜〜〜〜

たくさんの思い出をもらい、そしていつも暖かく見守ってくれた姉に
「ありがとう」を言いたいです。〜〜〜〜〜〜〜




きっと義兄はアルバムを見ながら一つ一つ昔のことを思い出し、そしてそれをこの手紙に
書いてくれたのだろう・・・

仏壇に供えてるアルバムの横に義兄からの手紙も添えておいた。
「義姉さん!大好きなよっちゃんからの手紙やで〜」と。

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