にいたかやま

遅れてきたサユリスト 娘・乙女編 

2024年02月19日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

@GOIJHEEDCAB@@
これ、吉永小百合に関する象徴的数字です。
1959年から1972年までの、年度別映画出演本数です。
「吉永小百合 夢一途」で著されている夢の世界です。
処女作は「朝を呼ぶ口笛」で、新聞配達の少年を励ます役どころで、印象は、爽やか、フレッシュそのもので、ラジオドラマの子役俳優が、「こんにちわ」と映画の扉を開けて、参入したのです。
そういっても、現実の世界では義務教育の中学生の身で、辛うじて、三分の二の出席義務を果たしたのでした。
1960年四月都立駒場高校入学・夢の世界では専属日活新人女優として契約。セーラー服と機関銃ならぬ赤いブラウスの世界。
現実の組織の世界の新人がそうであるように、映画のそれもまた然りで、嚆矢は、わき役、ちょい役なのですが、面白いお話があります。
三本目の「電光石火の男」でアクションスター赤木圭一郎に喫茶店で、コーヒーを運ぶウエートレス役の撮影.
この小百合という新人女優は、ブルブル、ガタガタと超緊張状態に陥り、それをお盆におもらしするのです。ナンドモ、ナンドモ、フフフ。

1970年の七十九本目の幕末でも初日から、伊藤監督に「着物の着付けがなってない」と怒鳴られっぱなしで,遂に撮影現場の鬼監督と衣装部間を三往復、万策尽きて落涙寸前のところ、中村錦之助の激励とサポートで、かろうじてピンチを乗り越えたのです。

八本目は初めての主演作「ガラスの中の少女」で相手役は浜田光男。以後、このコンビは青春純愛路線として、四十四作も展開されるのです。1961年度の小百合は、十六作品に出演しました。量的に見れば黄金時代、質的に見れば余韻に浸る間もない、垂れ流しの時代といえなくもない。
一般論として二十八作目の「キューポラのある街」を真の意味での女優「吉永小百合の誕生」とするようである。
小生の感想としては、自我に目覚め、人間として自立した娘の精神構造に、敬服させられたといったところ。
現実の世界でも父親の事業失敗と病気で、母親のピアノ教師だけという家計状況の中にあって、孤軍奮闘する現実サユリと、夢の世界のジュンがダブって見えました。

映画興行たるもの、鑑賞者に感銘・感動を与え量的にも興行成績の成功を祈願するものであろうが、1964年の「愛と死をみつめて」が興行成績ベストワンに輝きました。

「現実世界の事件として避けて通れない1963年8月9日のそれ、真夏の悪夢とでも言いましょうか、熱狂的なサユリストが渋谷区西原の吉永邸に侵入。ナイフと銃で武装。目的はサユリの体に、ケンという自分の名前を刻印したし。命も辞さない。
1962年から1966年は女優に、吉田正仕込みの歌手の肩書きも加わり、人気絶頂の時代。
不特定多数を対象とする人気商売は時に、とんでもない副産物を招くものである。
結末は、異変を察知した隣部屋の妹君が、犯人に体当たりして引き離して、母君が警察に通報。三百人もの機動隊が出動。犯人逮捕。
小百合様は恐怖で引退も考えたが、北原三枝・加東大介・石坂洋次郎等の著名人他、多くの人々から、お見舞い、励まし、激励を受け立ち直った」



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