にいたかやま

浅丘ルリ子 

2024年03月21日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

芸能界を村落共同体に見立てて、勝手に夢想してるだけなのだが、吉永の「こんにちは、母さん」を契機に、六十年前にタイムスリップして、彼女の二番目の姉を模索してみる。
浅丘ルリ子に決定。

浅丘ルリ子のプロフィール

1940 07 02 満州の新京にて誕生 父浅井源治郎が「信子」と命名
1943 春 満州国からタイ・バンコクに移住
1945 08 15 敗戦により連合軍のバンブアトン収容所に移送 姉妹四人と両親が約三千五百名の同胞と、抑留生活を余儀なくされる。
1946 夏 優先順位をつけて、日本への引き揚げ船の運航を決定

信子様の父上は、昭和八年(1933)満州国の高級官僚として、当該地に派遣され十年間勤務後、友好国との絆を図るべく、タイ国のバンコクに移転派遣。

浅丘ルリ子著「私は女優」のぺーじをめくると、9ページに満州国経済使節団の記念写真が登場する。
韓大臣・甘粕元大尉他、著者の父上を含む二十二名。
小生は瀬戸内晴美の心酔者で、彼女は伊東野枝に関する第一人者である。
信子様の父上が三人の虐殺に関与したとされる者の同僚ということで、一瞬身構えてしまいました。
父上は「ちょう」という妻をめとり、四人の女児を授かる。
信子様の満州時代は、三歳までの記憶ということになるので、童謡を歌うのが大好きだった幼女、ぐらいの記憶しかないそうである。
タイ時代の思い出は、父の発案で劇団を作り、「名月赤城山」を演じ、国定忠治の子分に背負われて「勘太郎月夜唄」を歌うと観衆から拍手喝采。これが芸能界に足をみ入れる原点だと信子様は述べる。

引き揚げ船の、優先順位の判断基準については、小生の知る所ではないが、当局から、急遽、要人の乗船が必要になったので、一家六人の乗船が、次の引き揚げ船に変更となった。
ところが乗る予定だった当該船は、沈没し海の藻屑となり果てたそうである。
【優先の 順が織り成す沈没 船の不可思議 運命の彩】

六歳の浅井信子少女が、運命の糸に操られながらも、父母の母国の大地に降り立ちました。



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