ずんだ日記

5年経った3 

2016年03月09日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

昨日に続く あの時の記憶
震災の話は聞きたくない!という気持ちの方はご遠慮下さい。

電気が来ないのでテレビが見れなかった。携帯ラジオでニュースは聞いていたが、映像を見ていないので、どんだけ悲惨な状態か、ピンと来てませんでした。
電話も携帯も使えないので、どこからも連絡ないし(当たり前だが)、逆に誰かに連絡しようとか全く考えていませんでした。

放射能雲が上空を通り過ぎた日、呑気に日用品購入のためホームセンターの列に朝から並んでいました。
もう2時間3時間は当たり前です。水やガスや電気もいつ復旧するのか全く見えないので、いつしか非常事態が日常になり、焦る事もなくなりました。会社も学校も休みだし。

ガソリンスタンドへ朝4時から並び、帰ってきたら水汲みに、それから買い出しで並ぶなど。給水や買い出しなどは複数人で行った方が効率いいので、自然と家族全員出動となり、あん時は団結してたなあ。ただ子供は、お菓子はほとんどないし食事だって不自由だし随分我慢していたと思う。

3日目の朝、反射式ストーブの天板で餅焼いて、さあ食おうとしていたら、玄関の方から「おーい」と誰か入ってきた。一瞬、物取りか! と構えると「生きてるかー」?? 兄でした。

兄は東京にいたので映像を見て、また、津波被災地域の中に亘理町とあるのを見て(会社がありました)心配し、かつ母に懇願され物資を持って夜に東京を出発しここまで車を飛ばして来たそうです。あれま。周りが心配してると思ってなかった、ごめんなさい。

俺がダメだったら娘だけでも引き取ろうと考えながら来たそうだ。ふーん。
で、全員無事を確認し1時間後帰って行きました。近くのスタンドで2時間並んでガソリン補給した後。ありがとう!

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屋根でひと晩過ごした、首まで水に浸かった、屋根伝いに孫抱いて逃げたなど九死に一生を得た話が私の周りに普通にありました。あの時自分は、たまたま何事もなかったのだ。

家の近くにスポーツ施設の大型体育館がある。しばらくひっきりなしにそこへの運搬ヘリコプターの音が鳴り続いていた。一時的に御遺体が安置されていたと聞く。ご冥福を心からお祈りいたします。



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