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教えられるブログ2

赤穂浪士の歩いた道、ウォーク 

2016年02月18日 ナビトモブログ記事
テーマ:散策&ウオーキング

寒い一日でした。
朝の電車は混雑は無かったのですが時間からして
既に通勤タイムは解消してました。

地元駅から小田急、快速中央線と乗り継ぎ総武線に
乗り換えしようとしてたら小岩駅で人身事故が発生し
電車は止まってしまった。

総武線は御茶ノ水で折り返し新宿方面に帰って行きます、こんな状況にはてどの様にして両国へ行くかと成った。

現在最も頼りになるグッズ、スマホは有難いすかさず
行き方をチェックしたら御徒町から大江戸線に乗って
両国に行ける事が分かり時間は多少掛ったが仲間に
合流出来た。

電車での事故が後を絶たない世知が無い世の中の
構造なのでしょうか、余りにも簡単に行動を起こす
人が多いのです。

10時集合だったが自分を含め数人同じく事故に
よって遅れて集まった。


今日の歩きは一か月遅れでもある、旧暦で今日の
歩きとしたようです。


四十七赤穂浪士の道を両国から高輪泉岳寺までを
歩きました。赤穂義士たちが歩いた時期は雪の降っている寒い夜明け前でした、昨日は気温も低下で日蔭では
ビル風に煽られ強風まがいの風に悩まされながらでした


歴史を知るうえで吉良邸からの歩きにしたようです、
本所松坂、吉良邸が有ったとされる場所に立ち寄り
配布のコース案内と内容を見ながら説明を聞いた。


義士の歩いた通りに歩くも既に開発されて道が消滅
している場所も有ったが古地図を元にその先を進んだ、
蔵前は当然お相撲さんの街、春日野部屋の前を通過する。

一の橋を渡りこの先松尾芭蕉記念館前を見る、時間の
関係で立ち寄りせず萬年橋を渡る、葛飾北斎の絵にも有った墨田川の流れを見ながら遠くにスカイツリーを
眺める。


歩きは清澄を歩きます、途中に石柱で平鹿源内電気実験の地と有った、昔はエレキテルである。

又しても橋を渡る、赤穂浪士は探られまいとコースを練って歩いた様子が実感する。永代橋を渡りながら
上流に向かう観光船も昔は優雅な屋形船を浮かべ夕涼みに楽しんだのでしょう。

新川に入ったしかしその場所には加賀の松平越前守邸が
有る、悟られぬように進んだで有ろう、道の横に青山学院大学記念の地と有った、少し離れて女子聖学院発祥の地、明治学院発祥もこの近くでした。湊街から入船と
通過し築地に来た。

築地外人居留地を通過するが今は立派な学校に変身していた、歩きは浅野内匠頭邸跡地に着く、江戸城松の大廊下で切り付けた事は謀反とは言え無念さが伝わる事件を
感じた。

そろそろお昼時と成るのだが、もう少し先に取るようです、両国の近くに芥川龍之介の育地と有ったが今度は
生誕の地であった。

風は相変わらず冷たい流れ陽も余りささない陽気で歩く、大きな建屋が飛び込んできた、築地本願寺だった
西洋風の作りが際立つ。
中に入りたかった〜っでも通過してしまう、この先聖路加ガーデンで昼食とする様だ。


墨田川に沿った階段で腰を降ろした、風よけが無く
一枚重ねての食事と成る、背中側には高級老後施設が
建ってます。年金生活者には当てはまらない建物と
よだれを流す(実際流してませんよ)。

一息入れ立ち去る、食べ終えたのに築地場外市場が目の前に来た、別腹は持って居るが寄る事は出来ず残念。

歩いてたら街頭でチラシ貰った、食べ歩きのご飯の数々が載ってたが今と成れば価格に満足で見るしかない。


街角で案内されたのは佐藤栄作元総理がこの地で死んだとされる建物を紹介された、新喜楼という料亭だった。
死ねる物ならこんな死に方も良いかなと歩きの仲間が言い話す。

歩きは東銀座へと代り離れた場所だったが歌舞伎座が有った。
銀座四丁目からは離れているが少し雰囲気を味わいながらです。

新橋に入った、汽笛一声のゼロ番の起点を見る、其処に
当時のプラットホームの一部も見られる、新橋、横浜間を開通させた当時の物が見られる、鉄道歴史館が有った。

外周のみを見て終わる、此処も残念賞である、新橋の名物日テレタワーがそびえる。毎度見ているNTVが凄い、廻りにも巨大なビルが目白押しに天を突く。

浜松町国道15号線を歩き箱根駅伝の道を使って芝大門へと向かう、こうして泉岳寺へと近づく。

札ノ辻を通過する、江戸城無血開城を果たした西郷隆盛、勝海舟会見の石碑が有った、三田第一ビル地に、薩摩藩屋敷があったされる。

三田の街当時の名前は御田と書いたその八幡社に立ち寄って説明を聞く。我ら14名は終着の泉岳寺へと
着いた。境内に上がり四十七士の墓石へと向かう。

なるほどなるほどと言う、赤穂浪士の話から外れたが
足はちゃんと泉岳寺へと歩いてます。
泉岳寺交差点が当時の寺の門が有ったとされる場所だった、赤穂の四十七士が入った瞬間門が閉じられ外部からの入門を閉ざし境内で吉良之助の首を洗う。

そしてこの地で自刀で切腹した場所が今のお参りの出来る墓地が並んでます。今で言えばクーデターの様な事件はこうして浅野内匠頭の無念を晴らし終えた当日が伺えました。



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