メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

尺八と横笛吹きの独り言

嘉瀬の奴踊り(かせのやっこおどり) 

2015年11月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●地図で示されたのが五所川原、今日は青森県の五所川原が舞台だ。
 
「嘉瀬の奴踊り」の嘉瀬(かせ)はいまは地名ではもうないが津軽鉄道に嘉瀬駅はある。
嘉瀬村は金木町(かなぎまち)になったようである。そしていまはその金木町も消滅している。
金木町(かなぎまち)は青森県の北西部、北津軽郡にかつてあった町である。
太宰治、吉幾三の出身地として知られ、津軽三味線の発祥地であり、地吹雪の体験ツアーや斜陽館などを観光資源にする町であったが、2005年3月28日に、五所川原市、市浦村と合併し、新市制による五所川原市となったため消滅した。
五所川原市地図はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

●加瀬の奴踊り
五所川原市(旧金木町)嘉瀬に約300年前から伝わる盆踊り唄です。津軽四代藩主信政公が藩士 鳴海伝右衛門と工藤五郎兵衛を呼び、嘉瀬新田開拓を着手させました。上手の工藤五郎兵衛の土地はよく、腹いっぱい飯を食い、夜昼休まず働いたので仕事ははかどりました。下手の鳴海伝右衛門の土地はとても悪く、開拓ははかどらず、開拓の月日は遅れ、上役のいじめをかいました。これを見兼ねた主人思いの奴徳助は嘆き悲しみ、伝右衛門を慰めるために歌い踊ったのが始まりと伝えられています。
 歌の中の「嘉瀬と金木の間の川コ 石っコ流れて この葉っコ沈む」という歌詞は、「誠実な者は恵まれず狡猾なものがはびこるのは残念なことだ。この世の中は逆さまだ」と藩政時代の社会を風刺したものといわれています。
嘉瀬の奴(やっこ)であった徳助が、主人の開拓事業がうまくいかず、いじめられているのを慰めるために唄い踊ったわけだ。徳助さんやるねえ……
            
 
●こんど民謡会でこれをやることとなった。早速、準備開始……
CDで津軽三味線「嘉瀬の奴踊り」高橋裕次郎三味線
NHK 音源 山本謙司「嘉瀬の奴踊り」
尺八符面……正田麻盛琴古流符面・その他都山符面二つ
とそろえてみたが、「嘉瀬の奴踊り」津軽ものの本場のものと、おそらく藤本さんのものと二つあるようだ。山本謙司「嘉瀬の奴踊り」はとても、」むづかしく音は採れない。

 
●これは正田麻盛さんの琴古流譜面だ。おそらく津軽版の難しい譜面だ。
プロの歌手の方(浅利さん、岸さん)はみなさんこれですね。
民謡会でやるのは、これでない。おそらく藤本の譜面であろう。
これをyoutubeで探す。
したらば「嘉瀬の奴踊り」の、それらしい動画が見つかった。


●加瀬の奴踊り
写真はhttp://www.city.goshogawara.lg.jp/21_kyoiku/syakyo/bunkazai/kanagi/yakko.htmlより転載
●利根町文化祭youtube
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/enlINyo6Y_0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
https://youtu.be/enlINyo6Y_0


さっそくこれを音源として、採譜作業に入る。
Kさんからいただいた譜面を参考に修正していったのがこの符面。
しかしこれとて、参考符面がなければとてもできませんが、ありがたや……
部分部分を音源に合わせて確認修正しました。
ピをヒと変えて吹いている。ピよりヒが柔らかい気がします。 
●譜面1
今を去ること約320年前、津軽四代藩主信政公は領内の開墾に力を注ぎ、藩士を投入して新田を開発し、米の増収を図ろうとしました。藩士たちは藩公の仰せとはいえ、武士としてはずかしめにあったように思い、新田開発の希望者は少なかったそうです。しかし、鳴海伝右衛門は、妻子と奴徳助をつれて嘉瀬に住み、近隣の百姓たちと共に藩主の命令に従い、開墾に熱意をもち、昼夜の別なく総力をあげ、数年後には三石町歩の良田を造成することに成功しました。しかし、ある年、期限に遅れて金木御蔵に年貢米を納めに行った際、かつて同僚であった者が金木御蔵の役人として出世しており、伝右衛門を見る目が意外にも冷たく、腰抜け武士の典型よと冷笑されてしまいます。伝右衛門は次第に懐疑的になり、日がたつにつれて沈みがちになっていきます。主人思いの奴徳助はこのさまをみて、恵まれない主人をなぐさめようとして思いついたのが、次の歌詞でした。

……嘉瀬と金木の間の川コ、石コ流れて木の葉コ沈む……
自分で節をつけ、振りつけもし、秋の取り入れの振舞酒の席や、月見の夜など自ら踊り、主人の不遇をなぐさめました。この奴徳助の心遣いに、伝右衛門は心から喜んで、自分でもこれを唄って踊りました。これが藩主の知るところとなり、やがて二人を弘前のお城に呼び、御前で唄い踊らせたところ、ことのほか喜ばれて賞讃されたと伝えられています。それからは、村人も踊りを習い、お祭りやお盆には村をあげて踊り、今日に及んでいます。(昭和51年発行「金木郷土史」参考)
(昭和44年県無形民俗文化財指定)
http://dazai.or.jp/modules/contents/okutsugaru/geinou03.htmlより抜粋

 
●譜面2
•一.さぁさこれから嘉瀬の奴踊り踊る さぁさこれから奴踊り踊る (ソラ ヨイヤナカ サッサ)
•二.嘉瀬と金木の間の川コ 小石流れる 木の葉コ沈む
•三.嘉瀬はよいとこお米の出どこ 嘉瀬の奴踊り お国の自慢
•四.稲妻ピカピカ雷ゴロゴロ 意気地なしオヤジ 薔薇株サひかかって千両箱ひろた
•五.竹の切り口シコタンコタンのナミナミたっぷり溜まりし水は 飲めば甘露のコリャ味がする
http://www.tachineputa.jp/sightseeing/pickup_01.html

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ