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尺八と横笛吹きの独り言

熊野三山(くまのさんざん)詣でに行ってまいりました。 

2015年03月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●和歌山県・三重県が中心 

「語り部付きで熊野古道・中辺路(なかへち)をじっくり歩く熊野三山と道成寺本州最南端の地潮岬周遊3日間」という長いタイトルが今回の旅。
新幹線で新大阪、バスで中辺路から熊野古道のさわりだけを歩く、(1.590分のお姫様コース)
さらに熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)をバスで巡る旅。
参加者は全国から45名。バス満席。我々夫婦は5組程度で、女性や男性のお一人の方が多いように思われた。旅行社はクラブツーリズムだ。
旅行は「やる気・元気・金気」が必要だと……ガイドさんが言っていました。
ここに来るまでの準備や体制つくりは大変だ。健康でなければいけない、お金も必要、ジョン君の宿泊も考えないと、義父母が具合が悪くなれば行けない。
様々な障害?(多くは語りません)を乗り越えまして行ってまいりました。
無理して行ってきてよかったね。
バスガイドさんのブラックユーモアやしゃべりのうまさ、歴史的な含蓄のあるお話。添乗員さんのおもしろい個性。語り部さんの元気……すべて女性だ。彼女らはベテランのプロだね。
終わりの新幹線では名残惜しくて、見知らぬここだけのお仲間が不思議と添乗員さんに集まってくる。
この方は精一杯やるし、小さな体でよく動く、すぐぺこり頭を下げて謝る。嫌みがない。あからさま。
くちから生まれた女綾小路きみまろ。
それでも疲れた様子はない。「明日はツーリズムの指導者講習会ですが、たぶん寝ています」
おもしろい方だ。バスガイドさんは名古屋まで来たらとんぼ返りで和歌山白浜まで来たバスでかえるのだという。
「お世話になりました」
(食事がいまいちでしたが、こういう方たちのおかげで、楽しくなるものだ)
            
 
●熊野古道
昔は天皇様だけが参詣していた。800名のお供をつれて、馬150頭(帰路にのるらしい)。
蟻の熊野詣と言われた。
地元の方はお米の供出で大変であったらしい。
「伊勢に七たび、熊野に三たび」伊勢は一生に7回行けるが、熊野は秘境で難行一生に3度しかいけないほどけわしい道であった。そこを我々はバスであっという間に行ってしまうわけだ。
 ・平安時代中期ごろから、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになると、法皇・上皇などの皇族、女院らの参詣(熊野御幸)や貴族の参詣が相次ぐようになった。実は、歴代の上皇・法皇たちも頻繁に熊野詣を行っていたのです。記録によると、白河法皇は9回、鳥羽法皇は21回、そして、清盛が活躍した時代の法皇である後白河法皇にいたっては34回もの熊野行幸を行っています。
その嚆矢は907年の宇多上皇とされ、鎌倉時代まで盛んに参詣が行われた。1081年には藤原為房(『為房卿記』)、1201年には後鳥羽上皇(藤原定家著『後鳥羽院熊野御幸記』)、1254年には藤原経俊(『経俊卿記』)が参詣したことが文献に記されているが、白河上皇、後鳥羽上皇などのように何度も参詣する例もあった室町時代以降は、上皇や貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列する様に例えて「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったという。江戸時代には伊勢詣と並び、庶民が数多く詣でたという。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


 
●安珍と清姫物語
道成寺の和尚さんによる絵解き説法はおもしろい。
この悲恋物語は現代で言いますとストーカ殺人ですね(笑い)。みごとな話の展開。
邦楽の世界でも新娘道成寺、娘道成寺としてあるようにあらゆるジャンルでこの悲恋は語られている。
映画にも登場。安珍役をやる俳優さんはほとんど亡くなるそうだ(市川雷蔵さんなど)。女性の執念はいつの時代でも怖いのう。

安珍清姫の悲恋物語寺の創建から230年経った、延長6年の物語。
参拝の途中、一夜の宿を求めた僧・安珍に清姫が懸想し、恋の炎を燃やし、裏切られたと知るや大蛇となって安珍を追い、最後には道成寺の鐘の中に逃げた安珍を焼き殺すという「安珍清姫の物語」の悲恋は「法華験記」(11世紀)に記され、「道成寺物」として能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎でもよく知られています。
http://www.dojoji.com/anchin/



●那智の滝
どこかの老夫婦であろうか?
太古の時代からこんな滝が出現していたら……霊験あらたななものを感じたに違いない。
すごい滝だ。私は50年前に南紀修学旅行でサンフラワー号で勝浦に停泊して参拝したことがある。

 
●語り部の説明
こんな旅姿で語り部の女性が丁寧に話します。
この語り部さんがいないと、面白味は半減しますね。

 
●牛馬童子
中辺路の箸折峠にある像高約50cmの石像で明治時代に作らたれたものです。
その名の通り牛と馬の2頭の背中の上に童子がまたがっている像で、一説に
延喜22年(922)に熊野御幸を行った花山法皇の旅姿を模したものと
言われています。
この石像のある箸折峠の丘は、花山法皇が御経を埋めた場所とも伝えられ、

●熊野路には熊野の遥拝所である王子社があり、その数の多さから九十九王子(くじゅうくおうじ)と呼ばれました。
熊野参詣の人々は、長旅の途中、王子社で奉幣して熊野権現を遥拝し、そこで休憩しながら熊野を目指して山道を
歩いて行きました。熊野へは険しい道が多く苦労しましたが、このような難路を歩く苦行こそが功徳を積むことになると
考えられていました。http://www.chikatsuyu.jp/kumano_kodo/index.html
●王子とは熊野権現の御子神(おみこ)であるとの認識があり、すなわち参詣者の庇護が期待されたのである。

●八咫烏(やたがらす)

神武天皇が国造りの際、東方に向かう時、東の方角に光るものがあった。そこにこの怪しげな3本足のカラスが神武天皇を導いた。降り立ったところが那智の滝だ。
日本神話において神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス(烏)[1]。一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
ボールをゴールに導くようにとの願いが込められているとも。日本サッカー協会のシンボルマークはこの八咫烏(やたがらす)で、なでしこジャパンのシンボルマークでもある。勝利に導くカラスだ。^
神話において、八咫烏は熊野の神の使いとしても活躍する。山でイノシシを追っていたある猟師がカラスに導かれて大木をみいだし、そこにみえた光に矢を向けると、「私は熊野の神である」という声が聞こえたためその神を祀る社を建てたという。


●薙ぎの葉
葉っぱが特徴的で、葉脈がタテにのびており、横にしてひっぱっても、なかなか千切れないほど強いです。(縦にしてちぎったら、切れます)
   
その葉っぱの丈夫さから、「男女の縁が切れないように」と、女性が手持ちの鏡の裏に入れる習慣があったそうです。
  
また、梛の葉は、裏も表も同じようなので、夫婦で持っていると裏表のない夫婦でいられるとか、縁が切れないなどといわれ、かの源頼朝と北条政子も、1枚ずつ持ってお守りにしていたと言い伝えられています。http://kumanofurusat.jugem.jp/?eid=357
梛という名は、凪(なぎ)に通じることから、漁師や船乗りにもその葉がお守りとされました。

●南部牛追い唄(市の中に「なぎの葉」が出てきます)
今度来るときゃ、もってきておくれ
奥の深山の なぎの羽葉 こりゃさんさーえ

 
●2011年12号台風の爪あと……
車中のあらゆる場面で根こそぎに山川が被害を受けている。
はて?
4年前に集中豪雨があったのだ。東日本大震災が2011年3月11日、そして5か月後にこの集中豪雨があった。気が付かなかった。
●平成23年台風第12号(アジア名:タラス〔Talas、命名国:フィリピン、意味:鋭さ〕)
2011年8月25日午前9時(日本時間、以下同様)に発生した大型の台風である。
この台風に起因する豪雨により、特に紀伊半島(和歌山県・奈良県・三重県)において被害が甚大であったため、豪雨による被害については「紀伊半島豪雨、「紀伊半島大水害とも呼ばれる。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

平成23年台風12号は、8月30日から9月6日にかけて広い範囲に大雨を降らせた。特に紀伊半島では記録的な豪雨と なり、三重県、奈良県、和歌山県で洪水災害、土砂災害が多発した(3県における土砂災害101件1) 、死者71名、行方不明者16名2))。
http://www.isad.or.jp/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=IB17&ac2=109summer&ac3=6678&Page=hpd_view
近露王子近辺は水害で屋根まで水浸しだったそうだ。(語り部さん言)
この「近露王子」(ちかつゆおうじ)の語源
この地で法皇が休憩をとり、食事をするためにカヤ(萱)の軸を折って箸代わりに使ったという言い伝えから箸折峠という名前がついたとされています。なお、近露という地名も、法皇がカヤを折った際、カヤの軸の赤い部分に露が伝わるのが血のように見えたことから「これは血か露か」と
尋ねられたのが由来になったと伝えられます。(これはこじつけっぽいね)
これは血か露か……近露……(やるね)

●こんな悲劇も……ガイドさんが話していました。
世界遺産・熊野那智大社につながる和歌山県道沿いの那智勝浦町市野々地区。那智川の氾濫(はんらん)で、寺本真一町長(58)の自宅も流された。寺本町長は台風への対応で無事だったが、妻(51)と娘(24)の2人の行方が分からなくなり、4日が結納だった娘が遺体で見つかった。
http://blogs.yahoo.co.jp/chu_chan24/65242055.html

●追加
イーデスハンソンは中辺路の田辺の山奥に住んでいます。語り部さんが指したのは山奥。
宣教師の子として父の任地であるインド・マスーリで生まれる。6歳まで在住。1960年来日。66年まで大阪在住、東京を経て87年から和歌山県熊野に在住。
ユニークな大阪弁と舌鋒鋭い論評で、テレビ・ラジオ・雑誌対談などで人気を得る。
 その後は、1986年から1999年まで13年間にわたり、世界的な人権擁護団体「アムネスティ・インターナショナル」日本支部長を務め、支部長を退任した後は特別顧問として精力的な活動を続ける。
 一方で、1987年からは念願であった「田舎暮らし」を、2004年に世界遺産登録された「熊野古道」の通う和歌山県中辺路(なかへち)町(現・田辺市中辺路町)で開始。2010年度から2013年度まで近畿大学総合社会学部の客員教授を務める。
「何で熊野やのとよう聞かれるけど、山やからということやね。生まれ育ったインドは2千数百メートルの山、ここらは400メートルたらずと高さは全然違うけど、山は山やしね。ムササビみたいに同じ動物がいてたりもする。ここに引っ越してきた日のあくる朝、目覚ましたとたん、ここに住むことにして良かったって思うた。その気持ちはいまもずっと変わってへんよ」
 熊野古道がすぐ側を通る和歌山県田辺市中辺路。この地に東京から移り住んで今年6月で20年になるイーデス・ハンソンさん。静かな山の暮らしを満喫しているという。しかし、20年という歳月、この地にもさまざまな変化があった。その一つが田辺市との市町村合併だ。
http://www.chihoujichi-center.jp/jichiro-fukuoka/main/kiji/1143/1143-08main.html

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