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尺八と横笛吹きの独り言

島原の子守唄 

2015年03月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●民謡練習会で「島原の子守歌」のリクエストがありました。 
これは採譜・・・・ではなくて正田麻盛先生が琴古で採譜したものを、都山に変換しただけの譜面です。変換譜ですね。

この曲、前奏がいろいろあるようで(河童さん譜面は前奏がまた違います)・・・・練習会の三味線音から正田先生のものと一致しましたので、都山譜に変換しましたのかこれです。

●「島原の子守歌」について(ネット検索して資料を集めただけのものです。)
1.主に長崎県の島原半島に伝わる子守唄。
2.長崎県島原市出身の作家宮崎康平が初妻が家出し、一人で子育てをしていたころ(1950年ごろ)に歌って聞かせていた子守唄をベースにして宮崎が作詞・作曲した歌謡曲。しかし、後に本作は山梨に古くから伝わる民謡「甲州縁故節」を原曲としていることが判明している。ただし、この件に関して宮崎は「世間では、長崎へ出かせぎに来よっていた甲州の石工の唄を、私が勝手に頂いてしまったとか何とか、無責任なこと言うとるが、それはまるっきり逆たい。/あの石工たちが、私のつくった歌をおぼえて甲州へ帰って、はやらせよったんじゃ」(出典:小池亮一著「夢を喰う男 宮崎康平伝」215頁(1982年講談社))と語ったという。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

どうも「甲州縁故節」が源流にあって、これを作家が歌詞を変えて作ったのが真実のようです。そういえば歌詞の中に「私は島原の梨の木のある家で育った。」という歌詞があります。梨の山梨だ。

●歌詞「島原の子守唄」
宮崎康平作詞・作曲(あの有名な幻の邪馬台国の著者がこの方です)

________________________________________


おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ン久助(きゅうすけ)どんの連れんこらるバイ

帰りにゃ 寄っちょくれんか
帰りにゃ 寄っちょくれんか
あばら家じゃけんど
芋飯(といもめし)ゃ粟(あわ)ン飯 芋飯ゃ粟ン飯
黄金飯(こがねめし)ばよ しょうかいな
嫁御(よめご)ン 紅(べ)ンナ 誰(た)がくれた
唇つけたら 暖(あ)ったかろ

沖の不知火(しらぬい)に 沖の不知火に
消えては燃えるヨ
バテレン祭の バテレン祭の
笛や太鼓も 鳴りやんだ
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/shimabara.html

●歌詞の意味
私は島原の梨の木のある家で育った。
何が梨だろう・・・色気も何も無い・・・
早く寝ろ!泣くんじゃない!
鬼池の人買いが連れ去りに来るぞぉ。
(鬼池は島原の対岸,天草の地名)

帰りに家に寄っていけよ。
見窄(みすぼ)らしい家だけど。
粟飯に芋を混ぜた黄金飯(こがねめし)があるよ。


嫁の口紅は誰がくれたのだろう。
火のような赤色,唇につけたら熱いだろう。
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/8142/lullaby.htm

●「おどみゃ」は「私は」の意。
 「しょうかいな」はそうかいなという意味ですが、ここでは囃子ことばとして使われています。
 「鬼の池久助どん」は口之津港の対岸の鬼池に住んで女衒(ぜげん)を営み、富を貯えたとされる人物。実在したかどうかは不明。
 「といも」はサツマイモのことで、「といも飯」はサツマイモを炊き込んだご飯。「粟ん飯」は粟を炊き込んだご飯。現代の混ぜご飯と違って、米の足りない分を芋や粟で補うのが目的でした。
 「つば」は天草・島原あたりの方言で唇のこと。
 不知火は8月の初めごろ八代海に現れる蜃気楼の一種。このため、八代海は不知火海とも呼ばれます。
 「バテレン祭」は島原や長崎一帯で催されるポルトガルやオランダ、中国の影響を受けた祭。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2008/12/post-6665.html

「おろろん」は、「おろろ〜ん」と泣く仕種の九州北部の擬音語だという説があり、関東で表現する「えーんえーん」という赤ちゃんの泣き声と同じなのだろうと推察される。
http://matiere.at.webry.info/200811/article_2.html

●時代背景
明治時代、島原半島や天草諸島の貧しい農家から、多くの娘が身売りに出されました。その数は累計20万人とも30万人ともいわれます。
 彼女たちは、島原半島南端の口之津港に深夜密かに集められ、そこで外航船の船底に石炭とともに詰め込まれて、中国や東南アジア各地の娼館に売られていきました。
 彼女たちの運命は過酷でした。外航船のなかで船員たちの慰み者になることも多かったし、娼館では辛い性奉仕や男たちから移された病気によって命を落とす者も少なくありませんでした。こうした女性たちが、からゆきさんと呼ばれました。
 からゆきさんのなかには、無事年季を終えて帰郷し、貯めた小金で親のために家を立てる者もいました。身を売って得た金であるにもかかわらず、そうした家は近所からうらやましがられたといいます。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2008/12/post-6665.html

「鬼池(おんのいけん)の人買いが連れ去りに来るぞぉ。」
・・・・おんのいけん きゅうすけどんがつれんこらる・・・・悲しい背景だ。
泣きやまぬ子に、こうしてあやしたのですね。
貧しさゆえに多くの娘が身売りに出されました。その数は累計20万人とも30万人ともいわれます。こういう時代を背景にこの唄が作詞されてのですね。
カラユキさんの悲しい背景があるんだ・・・・

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