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タキさんblog 自然大好き

東京大空襲70年に思う 

2015年03月07日 外部ブログ記事
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〔東京大空襲の証言〕   
 就学前の私は、おそらく東京大空襲の体験者として記憶に残っている最後の年代ではないかと思うし、その空襲のほとんどが夜間であり、子供ながらその恐怖は今も忘れ去ることが出来ない。
 墨田区西吾嬬町(現在は八広町)では東京大空襲にて町全体が延焼により消失した。毎晩のようにラジオ にて「B29・・・・・ 敵機来襲・・・・・ 」の放送と同時に裸電球の傘より黒布の覆いを被せるとともに、防空頭巾を被り、家の近くの防空濠に避難するのである。
やがて空襲警報の連続音が鳴ると同時に、夜空に対照灯(サーチライト)が5〜6カ所よりB29爆撃機に照らされるや、高射砲がつぎつぎと発射された。しかし高度、高速であることにより命中せず、B29から投下した焼夷弾が柳花火のように炸裂し、見渡す限り東京周辺の天空は火災による真っ赤に染まり、子供ながら何処に逃げればよいのか、ただ、おののくばかりであった。 
京成寺島駅(現在は無い)の近くに南竜館(映画館)が高い建物であったため、その屋上に引火して周辺の家屋が全焼したとされているが、その真意は判らない。
隣近所の人々が避難する方向に我が家族は布団と鍋釜、子供である私はリヤカーに乗って荒川の土手に向かったのである。避難途中、子供である私は恐怖のためリヤカー上の布団の中に頭をかくしていた事、また移動中、履物のゲタを落として布団の中で泣き叫んでいる私を無視してリヤカーは止まらなかった事は、親も相当な緊迫感があったものと今更らながら思い出すのである。
     〜後の風潮では、欲張って家財道具を持って逃げた人々の多くは、焼け死んだとのこと〜 
 荒川の土手には警防団の方々が被災者を誘導しており、「橋(四ツ木橋)は爆撃の目標になるので・・」との事で対岸の葛飾区の本田国民小学校に避難し、地域住民から炊き出しの「おにぎり」が配られ、気分的に落ち着いたのであった。子供の私は、食事にありつけた事により恐怖から脱出できたものだった。
翌日だったか、住まいを見に行くが、勿論、町全体が焼け野原で、金物の「火鉢」のみが家の中央に残っていた。役所で発行した「り災証明書」を受け取り、母の実家である千葉の本納駅に汽車で向かう。
汽車は外房周りのため、大網駅で下車し本納駅までの2駅を真夜中に電灯のない線路上を母親に手を引かれながら歩いたこと、更に駅より一里の距離にある田舎までの県道と農道では、何回もつまずいたことがあったが、恐らく母親の勇気づけを聞きながらであろうか、今、その辛さは私の記憶にはない。
なお、避難先の田舎に帰る総武線は相当の混雑ぶりだったが、幸いにも4人(4人掛けの椅子であるが5人が座る)座ることができた。私の席の前には一人の若い娘さんが座っていたが、本千葉駅で下車する際、羽織っていた着物と裁縫用具一式、及び何にがしの「小銭」を名を告げることなく私の母に差し出した事は悲惨な戦争被害を被った私達に対する若い娘さんの精一杯の支援であり、今でもその慈悲に感謝している。


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