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尺八と横笛吹きの独り言

自己紹介8・・・・こんな仕事をしていました。 

2013年10月23日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●これが機械科工場の旋盤(せんばん)という機械だ。
現職時代は4校の工業高校を経験しまして、その学校では必ず機械実習という実習でこの旋盤を受け持ちました。4尺のワシノの旋盤という古い機械でした。

さて、お休みの今日は自己紹介のパート8版を書くことにしました。
現役の頃は生徒間にこれがわかるとマズイので、職業も仕事内容もオブラートに包みましたが。いまは教職が終えて気楽に書けます。ただし学校名がわかりますと、これまた差し障りがでてきますので、具体的なことは書きません。さあてお立ち会い・・・・スタート。
念願の伝統ある工業高校機械科(S39年卒業)を卒業しまして、大学は工学部精密機械工学科をなんとか卒業しました。高校2年生の時が東京オリンピックでして、クラスに何枚か招待券がきましたっけ。
・なにか人の為になるような仕事に就きたい。そんな志望で医療系の企業に入社。機械技術二課で機械設計をやっていました。作っているのは放射能検査機ガイガーカウンタでしたが、入社してすぐ悩みました。「思っているものと、何か違う」。
・思うところありまして、教職の道を選び直そうと決意。片っ端から教員試験を受けましたが、バタバタと落選。石川・静岡・秋田と足を延ばして受験しまして、1年後にたまたま東京にひっかかりました。会社は1年5ヶ月という短命でしたが、意気揚々と燃えていました。
最初の学校で面接を受けたとき、すぐ来て欲しいとの結果。(合格ですね)
事務室で「fue先生必要な書類は・・・・」などと呼ばれたときは、はて自分なのか?疑りました。
最初の学校は荒れていました。革ジャン、シンナー、卒業式での教員への暴力・・・・などなど・・・・学校紛争の余波がマダ残っていました。
そこで鍛えられました。教職の理想と現実をみました。
ここで初めての担任をもちまして、体重は5垠禪此5円ハゲ発症。いろいろありましたね。「教職を辞めたい」と考えたこともありましたが・・・・「なりたくてなった」のだからと踏ん張りました。最初の卒業生はS32年生まれだからすでに50代半ばになるだろう。5年後にこの学校で2回目の担任を持ちました(生徒はS37年生まれ)。今度は幾分、力を抜いてできた3年間でした。
・「文化祭」を中止にしようとする職員の意向のなかで、「学校公開」などという苦肉の名前にして委員長として頑張りました。10年間いました。この間に結婚もいたしました。
            
 
●これが職員室のfue先生じゃ。なつかしい写真、学校運営部の主任の時であろう。
2校目の学校は15年もいました(年齢では34〜47歳)。
前の学校が職員の力で団結し出して、落ち着いてきたころ、この学校に転勤。
これまた大変な学校でした。私の目には先生方が生徒の前では後退しています。
「先生方はもっと生徒の前面にでないとダメです。そして高飛車で管理的でははいけません」
前の学校の10年前にもどりました。
生徒指導部に籍を置き、毎日校門に立ちました(34歳)。
「お早う」「お早う」「ガムだせよ」「その服装はなんだ」てな調子。
・毎朝、目立ちすぎて生活部長の公選(全職員の選挙)で名前が入ってしまいました。
・ここで生活部長3年間、苦闘の連続。S59年にはバイク事故で3名の尊い命が次々と奪われました。900名の生徒の前で、事故があるたびに部長は演壇で私が話すのですが・・・・
全くの無力で、いやでした。「オイ俺が、いまどういう気持ちかわかるかよ・・・・」てな語り口です。みなシーンと聞いていました。

 
●機械科3年生の熱流体実験で内燃機関(ガソリンエンジン)のデーターを取っているところ。
受け持ちはなぜか3年生が多くなりました。
苦闘の生活部長の3年間(36歳〜38歳)が終わりまして、ここで担任を持ちました(私は40歳、生徒はS48年生まれ)。
学年主任として、8名の先生方と力を合わせ卒業させました。それぞれ考えが違う一国一城の先生方をまとめるには仲間の2倍は動きました。
学年団のまとまり・・・・それは生徒指導より難しくいろいろな問題を越えてきました。
そしたら今度は進路指導部・・・・ここでは部長を3年求人票が1500社を越える時代で、毎日コンピュータと格闘。カード3というソフトにはまりました。こうなると異動(学校を変える)はむずかしい。このソフトができる方が少ない。結局一つの学校に15年もいることになりました。この間、担任は1回しか持てませんでした。
(普通ですと3回持てますね。仕事にはまる性格です)
その学校の主(あるじ)に近く、企画委員長やら会計委員長やら・・・・いろんなものがついてきますね。
この間、管理職へのお誘いもありましたが、「自分に向いていない」・・・・ということでこの方向は辞めました。


●機械科3年生で課題研究「電子工作」を受け持ちました。その時に作ったヒゲロボットだ。
なぜか、電子系・電気系の教科は機械科の教師は不得意。私も同じ。しかしこの課題研究を受け持つことになってから。そこの学校の電子科の先生に聞きまくり興味をもちました。毎年、電子課題を変えていき、最後は電子ロボット(写真のヒゲロボット)を作り上げました(見よう見まねですが)。
 この2校目では入学試験の事務的な責任者として、エクセルによる入選処理を受け持ちました。キーボード一つまちがったらえらいこと・・・・夜も寝られないこともありました。
(いまでも思い出すと胃が痛くなりそう。二度とやりたくない仕事です。)

 
●これは体育館での式場設営での一コマ。
最後のお仕事は式典(入学式・卒業式・学校説明会等)の雑用係でした。
次の学校は13年お世話になりまして、やはり進路指導部長で3年、3回目の担任を持ちました(S59年生まれ)。
 学校の内部改革があり、教務部の行事と総務的な部署として学校運営部の主任としてこれを立ち上げました。(校長命令)
これが学校行事の式典の裏方仕事。写真のように体育館に椅子をどう並べるか悩みました。(55〜60歳の窓際。ほんとに窓際にあった新しい部署でした)
・学年担任の時代はエクセルによる成績処理を画策して全校に導入しました。
これは成績一覧表から通知票、その他を一気に出力するソフトでした。これが大変なしろもので、日曜日のよく学校に出向きました。15クラスの成績処理を一手に引き受けて導入しちゃいました。成績処理のコンピュータ化では相当もめましたよ。
(何事も最初に道を開く方は相当な苦労をいたします)

 
●ある日の大職員室のスナップだ。
ずいぶん昔の写真でなつかしい。体育、機械、国語、英語・・・・様々な個性が写っている。
どこの学校にいっても職員間はとても良い関係だ。
生徒指導が大変な学校ほど、職員間はまとまります。
この最後の学校は生徒が落ち着いていました。文化祭や体育祭が終わると飲み会。
退職を祝う会でも私がお世話になりました。
3校目で60歳で退職しまして、さらにこの学校で2年間再任用職員として勤務しました。
その後、非常勤教員としてまた違う学校に3年間勤務しました。
これで41年間と7ヶ月の教職生活になります。長かったなあ・・・・あっという間だ。
 最後のこの学校では広報部で学校PRの仕事を主にしまして、中学校の訪問・・・・学校紹介パワーポイントの作成。とくに学校中の通路に学校の内容がわかるようにPR写真を貼りつけ・・・・どうもひんしゅくを買ったようですが・・・・「しょうがねえジジイだ・・・・」とのあきらめでもって・・・・いまも写真はあるようですよ。

●現在の仕事は3K( きつい ・汚い ・危険) の体力仕事だ。
65歳まで教職で働いて、今度は生徒のことを考えない・・・・まったく違う環境で働いて小遣いかせぎ稼業中。
最初は宅急便の仕分け作業、いまは石材関係の運搬・包装・雑用をやっているです。
(シルバーの仕事は3Kが多いのを実感しています。)

ちなみに、教職を去るときに時間講師を頼まれましたが・・・・
「いやあ・・・・しばらく休みたい」。こんな人間ですよ。

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