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尺八と横笛吹きの独り言

「八戸小唄」って歌詞がとても素敵です。 

2013年06月02日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●先日から、「八戸小唄」の唄にチャレンジしている。 
八戸(はちのへ)って言う読み方・・・・はじめて読むと、これはどう読んでも「やと」だよね・・・・随分前、教員になりたてのころ、これを生徒の前で「やと」と読んでいました。
恥ずかしいけど、知らないと読めないのが地名だね。
おもしろい地名の八戸、写真では赤の箇所が八戸市である。
まだ行ったことがない。ウミネコで有名なところ。そして八戸小唄で有名なところだ。
 さて、この八戸小唄の歌詞が詩的で素敵なんです。今回はそのお話とウンチクじゃ。
作詞は法師浜桜白・作曲が民謡の父と呼ばれた後藤桃水だ。

港町である八戸市は、港湾と共に発展してきたて、八戸藩(はちのへはん)誕生のころ、八戸の港は鮫浦と呼ばれる漁港であった。サメを捕獲していたので地名に鮫の字が多い。
八戸市立鮫小学校もある。鮫=人食いのイメージからするとちょっとこわい名前ですが、
印象が深いです。
●一戸(岩手県)、二戸(岩手県)、三戸(青森県)、五戸(青森県)、六戸(青森県)、七戸(青森県)と続き、更に八戸(青森県)、九戸(岩手県)があり、昔(7〜8C)に城柵を維持するために移住して開墾をした人たちを柵戸(さくこ)と言った。その戸の区域を順番に一戸から九戸まで割り振った名残の説がある。
ここいらの先祖さんは、関東や信濃から移住して開墾してきたんですね・・・・
●資料
江戸時代南部藩2万石の城下町であった青森県八戸(はちのへ)。その地名の「戸(へ)」と呼ばれる一字の由来は何であろうか。この地名は南から順に一戸(岩手県)、二戸(岩手県)、三戸(青森県)、五戸(青森県)、六戸(青森県)、七戸(青森県)と続き、更に八戸(青森県)、九戸(岩手県)と南に下る。番号順に整然と配列された地名は全国的にも珍しい。戸の地名のある地域は、鎌倉時代に「糠部(ぬかのぶ)」と呼ばれたところである。吉田東伍によれば、鎌倉時代前半、文治5年に、南部光行が平泉討伐の戦功により糠部を拝領し、この地に牧場を開始したのことに由来するという。この牧場起源説に対して、平安時代初頭の蝦夷征伐の軍事的城砦の「柵」とそこに置かれた「柵戸」に由来する柵戸起源説がある。どちらが正当であるか未だ決定的なものはない。
●柵戸(さくこ、きのへ、きべ)
7世紀から8世紀にかけて、城柵を維持するためにその中か周辺に置かれた人々をいう。関東地方、北陸地方と信濃国から、東北地方・北陸地方、九州地方の辺境域に設置された城柵に移住した。自ら土地を開墾して生活を立て、城柵の造営と修理にあたり、戦時には城柵の防衛にあたった。

 
●汐煙(しおけむり)
http://blog.goo.ne.jp/sb2182/e/9277b6c08fbb9cc029c337a822bbd552より写真を借用いたしました。
波がくだけて飛び散るしぶきが煙のように感ずる。これを汐煙(しおけむり)と言う。


唄に夜明けたかもめの港
ハアサアテ
船は出て行く南へ北へ
ハァヨイヤサ
さめの岬は汐煙り
ハア キタサ チョイサ
●歌詞解釈
昨晩は唄を唄いまくって、夜を明かしました。
ここ八戸の湊はカモメの湊でもある。湊には今日もカモメが群れ飛ぶ。
船が漁に今日も出て行く、南や蝦夷近くの北にも漁に出かけていく。
遠く鮫が?の岬は今日も汐煙が立っている。

●八戸小唄」の一節に出てくる「鮫の岬」について「鮫ケ崎を指し ているのでは」と推測。さらに鮫ケ崎は宮城県牡鹿半島まで続く三陸海岸の最北端に 位置し、その突端にある鮫角は三陸海岸で唯一、朝日と夕日を望むことができる ...(ぜひ見たいものだ)

 
●かもめとウミネコの違い?
上がカモメ(冬羽)で下がウミネコ(夏羽)だ。
黄色い嘴(くちばし)の先端が赤、黒と色が付いているのがウミネコだ。
写真http://bird-muromi.sakura.ne.jp/shikibetu/s01/s01_03.html


煙る波止場に船着く頃にゃ
白い翼を夕日に染めて
島のウミネコ誰を待つ
●歌詞解釈
朝の場面から夕時になりました。波止場ではなにやら煙がたっている。朝出かけた船が湊に次々と入る。
先程からウミネコが騒いでいる。いままさにウミネコの白い翼が夕日に染まっている。
湊に戻る船、夕日に染まるウミネコ・・・・風情がある情景だ。
帰り着く船は家族が待つが・・・・
あの蕪島(かぶじま)のウミネコ達は、いったい誰を待っているのだろう。

●蕪島(かぶしま)は、青森県八戸市鮫町にある島。ウミネコ繁殖地として、国の天然記念物に指定されている[1]。また、2013年5月に三陸復興国立公園に指定されている。
「島」と呼ばれているが、内務省と海軍省の委託工事として1942年(昭和17年)に旧海軍により2年がかりの埋め立て工事が行われ、本土と陸続きとなった。
中型カモメのカモメと、ウミネコは足が黄色いという共通点がありますが、全体から受ける印象がかなり違います。
サイズ的にもウミネコが一回り大きく、ごっつい感じがします。
個々に見ていくと、まず嘴(くちばし)です。
ウミネコの嘴は、大型カモメ類に比べて細いため、かなり長く感じられます。そして、黄色い嘴の先端が赤、黒と色が付いているので、明瞭です。
カモメの嘴はウミネコに比べるとあきらかに短く、そして黄色い嘴の途中に黒い斑がぼんやりあるだけです。たまに黒い斑の周囲が、赤っぽく見える事がありますが、ウミネコのようにはっきりした色ではありません。
従って、嘴を見ただけで両者は識別可能です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


●この橋が船から「チラチラと赤い灯が見えた」湊橋(みなとばし)だ。
【写真説明】
八戸小唄にも歌われた湊橋。時代とともに周囲の環境は変化したが水産物流通などに果たす大きな役割は変わらない
http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/tyouki_kikaku/hasi/hasi_41.htm

●八戸の夜景は飛行機から見ると、灯のきらめきの中に赤、青の電光をちりばめて、 まことにきれいだが、むかしの夜は小中野の遊郭と鮫の紅灯が船乗り衆の心をかきたて たものである。日が暮れると一度湊橋を渡らなければ眠れないと言われた。



錨下せば狭霧の中に
赤い帆影がチラチラ見える
ゆこか懐かしい湊橋
●歌詞解釈
夜、錨をおろして船はまだ漁をしている。
遠くに湊橋のチラチラした明かりが見える。
あの灯が見えるところが・・・・昔、小中野の遊郭に通うのに通った湊橋だ。
なつかしい。また行ってみたいもんだ。

●「湊橋」資料
 八戸市の小中野地区と湊地区をつなぐ湊橋は、新井田川の河口付近に架かる橋では最も長い歴史を持つ。百六十年ほど前に書かれた紀行文の地図にも描かれているという。水産物の流通や人々の往来に果たす大きな役割は、今も昔も変わらない。
 現在の橋は一九七四年に造られた鋼橋で、全長八七・九メートル、幅一一・八メートル。橋を渡ると中央が高いのに気づく。最大傾斜6%。船が川を航行できるように、橋に丸みをつけた設計だ。
 橋のたもとの同市湊町本町生まれで、靴店を経営する奈良恭助さん(72)は、「五、六歳のころは木の橋だったような気がする。小学校は橋を渡り、小中野へ通った。高学年になって橋から川へ飛び込んで遊んだこともある。でも、あまり橋を意識しなかった。道路の延長のようなものだったからね」と話す。
 橋を有名にしたのは三一年に誕生した八戸小唄。三番の歌詞に「行こかなつかし 湊ばし」と出てくる。作詞者の法師浜桜白さんは、著書「唄に夜明けた かもめの港」(七二年)で、「小中野の遊郭と鮫の紅灯が船乗り衆の心をかきたてたものである。日が暮れると一度湊橋を渡らなければ眠れないといわれた。湊橋は若衆にとってはなつかしい橋であった」と、歌詞が生まれた背景を記している。
 今の橋の欄干には「八戸小唄のみなとばし」と書かれたプレートがはめ込まれている。

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