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尺八と横笛吹きの独り言

山田流筝曲「住吉」 

2011年12月29日 外部ブログ記事
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●これが大阪の住吉大社だ。

●住吉大社(すみよしたいしゃ)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
大阪府大阪市住吉区住吉にある神社である。地元では「すみよしさん」あるいは「すみよっさん」と呼ばれ、また毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名である。
大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社、の三社が日本三大住吉とされる。
 社伝によると、住吉神社は平安時代末期の保元二年(1157年)、後白河天皇の勅命によって藤原俊成(ふじわらしゅんぜい)が摂津国(大阪)住吉より、左京五条室町(五条烏丸)の邸宅内に住吉明神の分霊を勧請し、新住吉(にいすみよし)と称して祀ったことが始まりと伝えられます。住吉明神は航海の神として知られると共に(また安産の神としても崇敬されました)、いつしか和歌の神としても崇敬され、この理由で歌人の第一人者の俊成の邸内に祀られたのでした。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/54807931.htmlより引用

海の神を祀る全国の住吉神社の総社であるが,この住吉さんが和歌の神様でもあること はあまり知られていない。

●さて、今日は山田流筝曲の「住吉」(すみよし)のこと。
来年度の都山流師範試験古曲の課題曲になっているので調べてみることにしました。

●山田流筝曲「住吉」について
箏:雲井調子  三絃:三下り
[作曲] 山田検校
[作詞] 不詳

山田流の箏曲。中歌曲。流祖(山田検校)作歌中七曲の一つ。
参詣道行物
(参詣の道行を主題として、道中の叙景描写を交えながら四季の 風物を織り込んだもの
。祝儀物。
和歌の神様とされる住吉大社への参詣を主題とし、光源氏の故事や月の出の叙景、松風の描写を配して、最後は住吉の御利益と箏曲の発展を祝って結ぶ。途中に御田植神事に歌い囃す難波女の踊歌の『忘れ草』『忘れ貝』を挿入。『忘れ草』は『忘れ貝』の「返し」で、それぞれの前の合の手は『京鹿子娘道成寺』の踊地にもある手。
「忘れ貝相方」として歌舞伎の下座にも用いられる。最後のやや長い合の手に『六段の調』の初段を合せる。当初からかなり流行したものらしく、式亭三馬の『浮世風呂』や為永春水の『春色辰巳園』にも引かれる。

●冒頭の「一千(いつせん)年の色……」の意味
一千年の寿命を保つという松の深緑は、冬、白い霜の降りた中で、いっそう栄(は)える。住吉の松は、霜と毎年出会おうという契り(約束)を長年月に渡って繰り返し果たしてきたであろう。松と霜を永く連れ添った男女に喩え、松の長寿を寿(ことほ)いだ歌。
http://www.eonet.ne.jp/~tngk/deta/koten/yamada/sumiyosi.html

●住吉(すみよし)歌詞

  一千(いつせん)年の色は雪のうちに、深き願(ねが)ひもけふこそは、
  はるばる来ぬる旅衣(たびごろも)、日も麗(うららか)に四方(よも)の空、
  かすみにけりなきのふまで、波間(なみま)に見えし淡路島(あわぢしま)、
  あをきが原もおもひやる、実(げ)に広前(ひろまへ)のすがすがし、
  かたそぎの、ゆきあひの霜のいくかへり、
  契(ちぎり)やむすぶ住よしの、松の思はむことのはを、
  わが身に恥づる敷島(しきしま)の、道をまもりの神なれば、
  四季の詠めのそのうへに、恋は殊さら難題がちに、
  読めたやうでも、よみおほされず、てには違ひに、
  心を尽し、高いも、低いも、あゆみをはこぶ、
  なかおしてるや、難波女(なにはめ)の、よしあしとなくかりそめに、
  うたふひとふし優(みやび)なる、忘貝(わすれがひ)との名はそらごとよ、
  逢うて別れて其後(そののち)は、又の花見を楽しみに、
  日数かぞへて思ひ出す、わすれ草との名は偽(いつは)りよ、
  茂りてかれてそれからは、後(のち)の月見(つきみ)を楽しみに、
  夜半(よは)をつみつつおもひだす、春や秋、
  往昔(そのかみ)世に光る君、御願(ごがん)はたしの粧(よそおひ)の、
  今に絶えせずおくは猶、深みどりなる其中に、
  花や紅葉をひと時に、こき散したる賑(にぎは)ひは、
  筆もことばも及びなき、折(をり)しも月の出汐(いでしほ)に、
  つれて吹き来る松風の、つれて吹き来るかぜの、
  かよふは琴のねがひも三つや、四つのやしろの御(おん)めぐみ、
  猶いく千代も限りなき、道の栄(さかえ)と祝(しゅく)しけり、
  道の栄と祝しけり。
●訳
一千年の寿命を保つ松の色は雪の 中 にも深い 願 いもかなって、今日こそは、はるばるこの住吉にやって来 た 旅衣の姿、日もうららかに四方の空も今日は霞んでしまった なあ!
この住吉神社の三祭神の出現なさった筑紫の檍(あおき)が原が思い出される。
本当に社殿の前は清らかである。
社殿の屋根の千木の行き違いの隙間から降りる霜は松と共に毎年出会うという契りを何度繰り返してきたのだろう。
住吉の相生の松の思う和歌を思うとわが身の拙(つたな)い歌が恥しくなる。
この神は和歌の道の守護神であるから。
四季の歌からはじめて、その上に恋の歌となるが、恋のは殊更(ことさら)難題が多く、上手に詠(よ)めたようで、充分には詠みきれなく、「てにをは」文法違いに心を悩ます。
高い身分の者も低い身分の者もこの神社に参詣する。
難波女(なんばめ)の葦(よし)や芦(あし)の一節のような一つの節まわしもみやびである。
古歌に住吉といえば、忘貝や忘草をよまれるが、恋には忘れようと忘れ貝をひろっても無駄で嘘である。
逢って別れて、その後又の花見を楽しみに日数数えて逢うことを思い出すことになり、忘草という名は偽りであるよ。
春から夏にかけて茂り、秋になって枯れて、それから後は月見を楽しみに夜半を幾夜か重ねてあったときを思い出すのが世のならいである。
その昔、光源氏は願が成就した礼参りに参詣した時の粧(よそおい)を今に絶やさず、境内は深緑の中に花や紅葉を一時に散らしたような賑やかさは、筆にも言葉にも表せないほどである。
折から月が昇って、松風のなる音は琴の音に通い、祈願も三社、四社に通じて、それらの神々の恵みは幾千代とも限りなく、和歌の道の栄であるとお祝い申すのである。

 
●山田流の丸爪(まるづめ)です。
山田流は丸爪を用い筝に対して正面に構える。

●山田流の特徴
江戸前のいさぎよさ。山型の爪のため正面を向き、爪の先端を糸にしっかり当てる。爪が厚くしっかりしているため大きい音や芯のある音を出しやすい。一方、早いテンポの曲を弾くには訓練が必要。

●山田流について
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
上方で箏曲が早くから隆盛していたのに比べ、中期まで江戸ではあまり人気がなかったのか、演奏する人が少なかった。そこで総検校の安村検校(1732年検校登官)は、江戸への勢力拡大を図り、弟子の長谷富検校を江戸へ下らせ、生田流系箏曲を広めさせたと言われる。その弟子山田松黒に教えを受けたのが山田検校斗養一であった。彼は江戸っ子好みの浄瑠璃を取り入れた新作を作り、山田流箏曲を創始した。山田は大変な美声の持ち主で、銭湯で歌ってはその技と曲を知らしめたと言う。かれはまた箏の改良も試み、より音量の大きな箏を完成させた。これを山田箏と呼び、現在では生田流諸派においても広く山田箏が愛用されている。こうして山田流箏曲は江戸人の嗜好に合い、以後江戸を中心に東日本に普及して、生田流と肩を並べる大流派となった。山田流箏曲は一中節などの浄瑠璃風の歌が中心である。
http://shakuhachi.web.fc2.com/analysis/analysis03-sumiyoshi.htmlより引用

●山田検校=関名は斗養一(とよいち)、山田流の創始者。1757~1817年
京都より江戸へ派遣された長谷冨検校(ハセトミケンギョウ)に学んだ山田松黒(ショウコク)から学び、江戸人好みの派手で粋な筝曲を創作して山田流を興した。それには、当時江戸で流行していた浄瑠璃や長唄・能・歌舞伎などの特徴を取り入れた独自の作風であった。自作曲の楽譜や歌詞の出版や、箏職人の重元房吉(シゲモトフサキチ)と協力し箏の改良も行い、現在主流の「素箏(山田箏)」を製作したりと邦楽発展に大きな影響をもたらした。山田流は江戸を中心に東日本に広まった。こうして幕末までには、西日本では生田流系が、東日本では山田流が盛んに行なわれていた。


 
●生田(いくた)流の角爪(かくづめ)です。
生田流は角爪を用い、この角を有効に使うため楽器 に対し左斜め約45度に構える。
山田流は丸爪を用い正面に構える。

●生田流の特徴
関西風の技巧派。角爪のカドを糸に当てるため、手首の角度はギターの奏法に似たものになる。
からだの向きも筝に対して斜め。軽快に指が動かせるため、洋楽に挑戦する奏者も多い。
http://www14.ocn.ne.jp/~yamauchi/denntou/denntou.htmlより抜粋しました。

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