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敏洋’s 昭和の恋物語り

水たまりの中の青空 〜第二部〜 (三百七十一) 

2023年06月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 社員数で圧倒する日本一か、売上額で日本一となることか。この日本橋の地に、他を圧倒する高さを誇る自社ビルを建てることなのか。しかしなにかが違うと感じる武蔵だった。数字ではない、そういった物理的なものではなく、武蔵もまた小夜子とおなじく崇められたいのだ。「おめえは、いらん子だ。よぶんな子だ」 酔った父親から浴びせられたそのことばが、まだ幼い武蔵に突きささる。「いやだっちゅうのに、酔っぱらったとうちゃんが……」。母親の子どもをかばう思いのことばなのか、それとも父親と同じく思いもかけぬ赤子だったゆえのことばなのか。
そういえば母親に抱かれてあやされたという記憶がない武蔵だった。貧乏小作人の常として、家族そうでのはたけ仕事になってしまう。畦に竹で編んだおおきなまるかごをおいて、そのなかにほうりこまれた。大声で泣き叫んだとしても、遠くから「おお、よしよし」と声がけをされて終わりという始末の日々をおくってきた。「げんきな子じゃのう」。他の農作業者たちからも、それが当たり前のこととして声がかかる。それを恨みに思う気持ちはないし、当時としてはやむをえんことだし、と武蔵も理解していた。しかしいまの武蔵には、どうでもいいことだった。それよりも育ての親への感謝のきもちが強い。なかなか授からなかった実子が産まれたことにより、商家から追いだされるように軍隊入りしたことも、いまとなってはありがたかったことだと感じる武蔵だった。
 帰りが遅い、と詰めよられると分かっている武蔵だった。毎日まいにちを取引先への挨拶回りに引っ張り回している小夜子に、相当の疲れがたまりはじめたことは、武蔵も感じていた。口では不平不満をこぼす小夜子だけれども、「みなさんが会いたがっているんだ」と、拝みたおす儀式をすれば、満面に笑みをたたえて「しょうがないわね」と応じる小夜子だ。
 武蔵の本音を言えば、今夜のことを問いただされるのが嫌だった。“ぬいのことを聞かれちゃかなわんからな。最近、みょうに勘がはたらくようになってきたし。なにはともあれ、さわらぬ神に祟りなし、だ” 小夜子の勘のするどさというのは、つまるところ観察眼にある。相手をよく観察することからはじまる。幼いころに母親の体調の見きわめやら、親類縁者の機嫌によっては叩かれるかもしれぬという恐怖感、そして茂作の感情の起伏、それらによってつちかわれたある意味、哀しいさがだった。

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