にいたかやま

瀬戸内晴美様 青春と子捨て 

2022年05月15日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

1922 05 15丁度百年前の今日、眉山を抱く徳島平野で女児が誕生。三谷姓を名乗る父豊吉母コハルが「晴美」と命名。姉に五歳年上の艶。
取り上げた産婆の託宣「気の毒だけどこの児は一年ともたん」
1929新町尋常小学校に入学。
父豊吉が大伯母瀬戸内いとと養子縁組して「瀬戸内晴美」となる。「瀬戸内海が晴れて美しい」
 1935徳島高等女学校入学
 大陸満州侵攻の御時勢学校教育も軍事教育化。
晴美もご多分に漏れず忠君愛国の軍国少女で、学業成績首席の晴美が集団の隊長号令役だった。
「かしら!右!」「すすめ!すすめ!」
1940東京女子大学に入学し、キャンパス内の東寮に入寮
1941 12 08の真珠湾奇襲大勝利の報告を東寮で学友から受ける。日本の敗戦等想像も出来なくて、源義経のそれの感覚で甘美な快哉を叫ぶ晴美がいた。 
 1942見合いをして婚約 男女七歳にして席を同じくせずの時代、これといった恋愛体験もなく、神仏具商の職人の娘晴美に母親主導で選んだ相手は学者の卵であった。
 1943 02月徳島で結婚 夫は北京に単身赴任 09月東京女子大学戦時繰り上げ卒業 10月北京に渡る。この形式を足入れ婚と呼ぶ。この間、晴美は毎日のように恋文を書きまくったのだという。この渡中が実質的結婚で、晴美によれば童貞と処女だったそうである。
 1944 08 01晴美が女児出産
 1945 08終戦
 1946 08中国当局により強制送還
 晴美の夫は北京大学で教鞭をとるような人物で、日中友好の旗のもとに大陸に骨を埋めたい志あれど、戦勝国中国政府にしてみれば侵略者軍人の片棒担ぎに過ぎないから、拘束送還に至った。
 敗戦後の中国生活は晴美にとって、殺されるかもといった恐怖の生活でもあった。
 リュックを背中に赤ん坊を抱え文字道理着の身着のまま、三年ぶりに立った故郷の徳島平野は眉山が奇麗に見渡せる焼け野原だった。
 母コハルと祖父の防空壕での焼死告知を受ける。
 (1945 07 04日の徳島大空襲。母親は祖父に覆いかぶさる状況で背中は真っ黒になっていたが、腹の方は白かった)
 母親は日頃言ってた「こんな地方都市が攻撃に曝される時は、日本が負ける、滅びる時だ」当日も逃げようと促す父親に対して「お父さんは逃げて、何もかもイヤになった」と返答。 合掌。
 1947秋、徳島生活から一家三人で上京。
 1948 02晴美が出奔。
 最初、晴美の夫が東京での妻子との生活基盤作りの為単身上京。恩師愛妻の親衛隊のつもりなのだろうか、先生の奥さんと言って弟子たちが出入りするようになった。
 涼太という教え子と晴美主導でプラトニックラブが進行。東京へ行こうと迫る夫の前に晴美は土下座した。
 「東京へは行けないんです。許してください。ほかの人を愛してしまいました」
 娘は怯えて夫の脚にしがみついた。
 父豊吉姉艶の取り計らいで、謝罪、上京の運びとなるのだが、晴美は夢遊病者のようになり、その後も涼太の岡山での逢瀬呼びかけに対して、名古屋まで行って引き返したりの支離滅裂行動。
 厳寒の二月、オーバーコートも財布も、配給通帳も取り上げられて、着の身着のままで、夫の暴力でお岩のようになった晴美が友人の出迎える京都に到着。
1950 02夫の酒井悌と協議離婚
1950 04 29父豊吉晴美の名を呼びながら急逝。 父から娘へのエール「お前は子捨て勝手をしたのだから人非人になった。鬼になった。どうせ鬼になったのなら、大鬼になれ。人情に負けて小鬼になるようなことだけはするな」 合掌。
 感想
 寂聴語録に「青春は恋と革命だ」「恋愛とは雷に打たれるようなもの」と有りますが、見合いと言っても卒業まで北京での夫との生活を夢見ながら、毎日のように恋文を書かれたのに、いざ親子三人で東京生活と思いきや、九つ年上のあなたより四つ年下のお弟子さんの方が好きになりました等、普通の感覚では理解しがたく、晴美が雷に打たれたとしか言いようがない。
 特に育児放棄・子捨ての大罪は万死に値する。
 寂聴は法話で語る。
 「自由奔放にしたいことは何でもしてきた。我が人生に何の悔いも後悔もない」が、「子捨てだけが悔やみても悔やみ切れない」
 エミューという大型の鳥類がいて産みっぱなしで別の雄を求めるそうである。
 アニーの場合は婚家に奪い取られたような感じもあったが、瀬戸内の場合は子供の為に離婚するのだけは止めようにも耳を貸さなかった。
女性にとって親に従い夫に従い子に従うのが美徳とされる時代、晴美の夫が受けた屈辱は如何ばかりかと同情の念さえ湧いてくる。    
晴美は本人の夫に対する支離滅裂行動に関して母親の焼死がなければ、離婚子捨てはなかったとも述懐している。
子捨てに関しても、社会制度・女性の経済的自立等終戦直後の時代情勢では、子供の幸せを考えるとやむを得なかったと述べる。














 
 
 



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