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尺八と横笛吹きの独り言

十三の砂山 

2012年12月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●「十三の砂山」都山譜。
tydさんから「十三の砂山」の裏吹きなどの質問をいただき、にわかにこの「十三の砂山」に目が向いてきました。自分の琴古譜面を見ながら都山譜に直すことを考えましたら、すでに河童さんが作られていました。
ちゃっかり河童さんの都山譜面をほぼ借用しました。(ありがとうございます)
 H8年につくった琴古の自己流譜面を見ながら、河童さん譜面を自分用に一部変更してあります(チョットとだけですけどね)。
 ちょっとした言い回しが地方や会派で違います。基本は河童さん譜面がありますのでこういうことができます。これを最初から都山譜でゼロから書くことは、私にはとてもできませぬ。
 この唄は哀愁があって、人気の唄ですね。いつかは唄ってみたい唄だ。
かつて繁栄した湊町・十三も大津波や洪水などによって、「砂山」が残るだけになってしまったイメージ、そして技巧的な節回しの津軽民謡の中で、大変美しく、哀愁に満ちたメロディは、人気があります。
http://senshoan.main.jp/minyou/minnyou-tosa.html


●十三湖(じゅうさんこ)が十三(とさ)?何で砂山で米?
昔この地方に13の村があったそうな・・・・
 さらに14世紀の大津波で村は壊滅、砂だらけになったそうな・・・・米の取り立て役人にこの砂が米ならよかったのにねえ・・・・そしたら米を取り立てる役人にこの砂をタダで積んで上げるたのになあ・・・・てな背景がある。
 うちらでは「十三の砂山」と呼ばないで「十三砂」(とさすな)と短く呼んでいるさあ。大津波がほんとうにあったのか、この繁栄した港町があったのか遺跡発掘調査をしているのだと・・・・イタリアのポンペイのようだなあ。幻の港町。いつか行ってみたい。。

【歌詞】
 十三の砂山ナーヤーエー 米ならよかろナー
 西の弁財衆にゃエー ただ積ましょ ただ積ましょ
 弁財衆にゃナーヤーエー 弁財衆にゃ西のナー
 西の弁財衆にゃエー ただ積ましょ ただ積ましょ 
●十三の砂山節は上の句と下の句に分かれており、下の句を二度繰り返して唄うのが特徴で、上の句を音頭といって優雅な節回しで、女性美のような旋律に対して、下音頭は荒削りで勇壮な男性的な調子で音頭の後を追いかけるようにして唄い、音頭と下音頭それぞれの特徴を発揮することによって、独特の雰囲気を醸し出しています。

【背景】
 「十三」は、現在の青森県北津軽郡市浦村十三で、旧十三村でした。この地は、十三湊を根拠地として、かつて安東水軍が、鎌倉時代から室町時代にかけて、交易を全国的に展開していました。室町時代には十三湊は、全国の三津七湊の一つに数えられ、大変繁栄していました。最近の調査で、この地に都市があったことが判明しています。

 弁財衆は、近世では弁財船に乗っている船頭衆の意味ですが、日本海を北行した北前船も弁財船と呼ばれていました。

 この弁財衆は、もともと「弁済使」からきていると考えられています。平安時代以後、国衙領や一部荘園などに設けられた役職で、貢納された租米を計算し処理する役で、九州地方に多かったようです。

 「砂が米なら、ただで砂山の米を積んでやろう」という歌詞に、米を取り立てられる側の苦しみを、コミカルにさらっと言い返しています。

 「十三の砂山」は、旧十三村で古くから歌われた盆唄です。
 http://myn.north-tohoku.gr.jp/kodawari/db06-m003-t004.php3
●中世安藤氏の時代に繁栄した十三湊は、江戸時代に入ると弘前藩の四浦の一つとして、米などの移出が行われ、西廻りの弁財船が出入りしていました。
 唄はこの時代に日本海文化の影響を受けて形成されたと考えられています。
 歌詞の一番にある“ 十三の砂山米ならよかろ〜 ” の句は、江戸時代後期の寛政8年(1796年)、この地を訪れた菅江真澄が『外ヶ浜奇勝』に書き記しています。

 
●「十三の砂山」祭り・踊り
 踊り手は笠、揃いの浴衣、黒の帯、白足袋、草履の支度で、手に抱え持つ小太鼓に合わせて、テンポ遅く順周りに踊る。毎年、8月14日〜16日の3日間に十三の砂山祭り実行委員会が主催し、祭りが開催されている。
http://www.city.goshogawara.lg.jp/21_kyoiku/syakyo/bunkazai/siura/sunayamaodori.htmlより転載
●「十三の砂山」(青森)

十三湖(じゅうさんこ)辺に伝わる盆踊り唄。”酒田高野の浜米ならよかろ、

西の弁財衆にただ積ましょ”と唄う「酒田節」が十三港に伝えられた。それに
元禄時代の「投げ節」にみられる返しが付けられて盆踊り唄となった。元禄1
3(1700)年、十三村は、津軽家五代・信寿の土佐守任官を機に「トサ」を「ジ
ュウサン」と呼ぶようになる。鎌倉から室町時代には日本七港の一つとして、
松前通いの船が寄港。上方文化を移入する玄関口としても栄えた。興国元年
(1340)8月、大津波が村を襲う。港は土砂で埋まり、村はさびれた。弁財衆は、
取り引きに関する全ての権利を与えられた船頭の敬称で、中世の弁財使をもじ
って呼ばれた。昭和26(1951)年、文部省主催の全国郷土芸能大会に出場した
成田雲竹は、相三味線の高橋竹山(1910-1998)の手を借り、今日の形に編曲し
て発表した。
http://www.1134.com/min-you/02/k0203.shtmlより転載

●鎌倉時代から室町期にかけて港町として栄え、数々の貿易を行っていたと伝えられる幻の中世都市十三湊。中世に書かれた「廻船式目(かいせんしきもく)」の中では「津軽十三の湊」として、博多や堺と並ぶ全国「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つとして数えられ、その繁栄ぶりが伝えられています。その他、複数の文献に、巨大な富を抱え、各地と交易を結んだ豪族「安東氏」の存在と共に記録されています。
この中世港町がどのように位置し、どのような役割を持つ町だったのか、また、1340年に起こったとされる大津波は本当にあったのか、その解明のために1991年から始まった十三港遺跡発掘調査では国立歴史民俗博物館と富山大学人文学部考古学研究室が調査に当たりました。
この1991年〜1993年の調査によって、ほぼ当時のままの形で津軽十三湊の町並みや遺構が残っていることが明らかになり、これまでに確認された中世の都市としては東日本で最大規模とも言われ、西の博多に匹敵する貿易都市だったことが裏付られています。
http://www.go-kankou.jp/miru_manabu/ando.htmlより転載。
●十三湖(ここはシジミとハクチョウで有名です)
津軽国定公園内に位置する。周辺自治体は五所川原市(旧市浦村)、北津軽郡中泊町(旧中里町)、つがる市(旧車力村)である。周囲30キロメートル、水深は最大3.0メートルに過ぎない。南方より岩木川が流入する。独特の荒涼とした風景に囲まれている。
特産物はシジミである。宍道湖、小川原湖と並ぶ日本有数のシジミ産地である。シジミ漁については十三漁業協同組合、車力漁業協同組合がある。資源保護のために1日の漁獲制限や禁漁区禁漁期間を決めるなどしてヤマトシジミの資源維持につとめている。
中世には日本海沿岸の交易港「十三湊」の在った場所であり、津軽地方の有力豪族であった安倍氏・安藤氏(安東氏)の拠点として栄えたが、近世以前に衰退した。資料は少ないが、1991年から発掘調査が行われ、研究が進められ、実態が明らかになってきている。
オオハクチョウ、コハクチョウの渡来地として知られ「十三湖のハクチョウ」として県の天然記念物に指定されている。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

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