塾長のブログ

最後の出撃! 

2022年11月07日 外部ブログ記事
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1945年8月15日正午、日本の降伏とポツダム宣言の受諾を伝える玉音放送が発せられる。これを受けて宇垣は「未だ停戦命令に接せず。多数殉忠の将士の跡を追ひ特攻の精神に生きんとするに於て考慮の余地なし」「余又楠公精神を以て永久に尽くすところあるを期す。一六○○幕僚集合、別杯を持ちあり。之にて本戦藻録の貢を閉ず」と戦藻録の最後を記す。自ら中津留大尉の操縦する彗星43型に搭乗する。彗星43型は2人乗りだが、遠藤秋章飛曹長が交代を拒否したため、宇垣、中津留、遠藤の3人が乗ることになった。海軍兵学校同期である第十二航空戦隊司令官城島高次少将、及び幕僚である宮崎隆先任参謀、横井俊之参謀長から「死を決せられる気持ちは理解できるが、戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、なんとかとりやめることはできないか」などと翻意を促されたが、宇垣は「武人としての死に場所を与えてくれ」と、その決意は揺らぐことはなかった。特攻隊は合計11機(3機不時着)で、沖縄沖に向かって大分基地から離陸した。出撃前の彗星前で撮った写真に彼は笑顔で写っている。高官が死地に赴くときには階級を示すものを外す習慣があったため、軍服から中将の階級を外し、そして山本五十六から遺贈された短刀を持参している。宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に無電は途絶えた。同日夕刻、沖縄県伊平屋島海岸付近に米軍が張っていたテントのすぐ近くに、1機の彗星が墜落した。中からは操縦士と思われる若い将兵1人のほかに、なぜか飛行服ではなく、階級章のない第三種軍装を着た壮年1人の遺体が収容された。出撃前の写真から判断して、これが宇垣の乗っていた彗星だった可能性が高い。しかし墜落状況は、動くことも反撃することもない目標を前にしてわざわざ特攻を行わなかったようにも見え、操縦していた中津留大尉が停戦命令を死守すべく意図的にテントを避けたとする説や、特攻の意味が無くなったと思い五十六の短刀で自決したとする説もある。ただし、これらの遺体が宇垣たちであると日本側によって公式に確認されたわけではないため、正確な死亡場所は現在も不明とされ、「敵艦に突入し命中した」などと説明する資料も存在する。なお宇垣は、ポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく特攻を行ったため、戦死とは見做されず大将昇級は行われていない。むしろ、停戦命令後の理由なき戦闘行為を禁じた海軍刑法第三十一条に抵触していたのではないかとする意見もある。階級章を外す宇垣中将と山本五十六より賜わる短刀を持つ宇垣中将。彗星に搭乗する宇垣中将。この写真を僕にくれた方は、この現場に居た整備士の方です。聞いたら日本軍は戦闘に出る場合は、階級章を外すのが常だったそうです。

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