塾長のブログ

原節子さんをタンバールが捉えていた 

2024年03月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


原節子さんをタンバールが捉えていた僕が初めて映画を映画館で観たのは『砂漠は生きている』(1955年1月14日日本公開)という映画でしたから、1947年6月生まれの僕は8歳か9歳でした。『ノンちゃん雲に乗る』(1955年に鰐淵晴子さんの主演で映画化された)という映画も、小学校の課外授業で、学校の先生に連れられて観に行ったのを記憶しています。僕はそれほどの映画好きでもありませんでしたから、今まで映画館で観た映画の本数なんて数えるほどしかありません。 大学を出て会社員になってからカメラの趣味が始まり、少し経済的に余裕が出来た40歳を過ぎる頃、ライカというカメラを知りました。古いタイプの中古ライカを購入して撮影を始めましたが、ライカというカメラはレンズが優秀なことでも知られており、僕もお金に余裕が出ると、新しいレンズも買い始めました。また、戦前のレンズでタンバールという軟焦点レンズがあることも知りました。 【軟焦点レンズ(Soft Focus Lens )とは、一般の写真レンズが各収差を可能な限り減らしてシャープに写るように設計されているのに対し、故意に収差を残し、ピントが合った像が軟かいものとなるように設計されている写真レンズである。ピントの芯がちゃんとあり、その周囲に滲みが現れる点がピント外れとの違いである。】 当然ですがライカというカメラを使って撮影された有名な写真家さんの作品にも興味が湧き、カルティエ・ブレッソンさんとか、日本人なら木村伊兵衛さんの写真を観ておりました。『昭和の女たち』という木村伊兵衛さんの写真集を買って、最も興味を惹かれたのが『原節子(昭和11年)』という作品でした。 【タンバールで撮影された原節子さん】そしてこの写真がタンバールというレンズで撮影されたのだと知って、タンバールを購入しようとウィーンのライカショップさんにメールで問合わせたのが今から10年ほど前でした。  【この写真のレンズが購入したタンバールですが、革ケース、フード、センターに遮光のあるフィルター、キャップの全てが揃っています。揃っているのは価値があります。】 さて、原節子さんという女優さん(1920年6月17日生まれ〜2015年9月5日 95歳死没)ですが、戦前・戦後にかけては絶大な人気を誇った女優さんで、今の吉永小百合さんどころではなかったと言っていたお爺ちゃんもおられました。(小百合ファンの皆さん御免なさい!!) 【原 節子(はら せつこ、1920年6月17日 - 2015年9月5日)は、日本の女優。本名は會田 昌江(あいだ まさえ)。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』、『東京物語』などがある。1963年に女優業を引退し、2015年に死去するまで隠遁生活を送っていた。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いた。…以上『ウィキペディア(Wikipedia)』より】 そんな原節子さんの映画を僕は一度も観たことはありませんから、少し調べたら、日本映画が初めて外国の映画会社と合作した映画に『新しき土』という日独合作映画があることが解り、それに若き日の原節子さんが主演で出ていると知りました。原節子さんという女優さん、一度も結婚をしなかったことから、”永遠の処女”とも言われたそうです。そしてこの映画のDVDが発売されていることも解り、原節子さんの動画を観たくてAmazonで探して購入しました。【これが、僕が原節子さんの映画の一つでも観てみたいと思って買ったDVDです。】【昭和12年頃の映画ポスターです】この映画のストーリーは、大きな呉服店のお嬢様(原節子)が、家が決めた男との結婚ではなく、紆余曲折しながら農業を志す男性と結ばれ、満州国へ渡り子供も出来て、さあこれから…というハッピーエンドで終わりますが、日独合作映画というより、ドイツ人に日本とはこんな国ですよ!と、紹介する国策映画です。DVDを見ていて驚いたのは、最初にアップした木村伊兵衛さんが昭和11年に撮影した写真の衣装と髪形をそのままに、原節子さんが映画に登場していました。映画は昭和12年公開ですから、映画撮影中の原節子さんを木村伊兵衛さんが昭和11年中にタンバールで撮影していたことになります。【着物の柄と日本髪で木村伊兵衛さんの写真と同じだと解りますよね。】 【ドイツとの合作映画、『新しき土』の映画パンフレットの切り抜きです。】   【これが映画のタイトルでDie Tochter des Samurai、日本語にすると『侍の娘』という題名ですね。】【ゲッペルスと原節子さん】NHKの”映像の世紀”という番組で見た、ゲッペルスと原節子さんの写真です。ドイツで公開された際には初上演の映画館で、原節子さんはドイツ語で挨拶したそうです。調べた資料によれば、ゲッペルス宣伝相やヒットラーにも会っていますが、無類の女好きのゲッペルスと寝たとか、ヒットラーの愛人になったとか、下衆なことを言う輩が日本人にもいたそうです。今ならネット上で大変なことになっていますよね。 【パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels  1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツの文学者、小説家、政治家。 「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握と、政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。政権下では第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。 第二次世界大戦の敗戦の直前、ヒトラーの遺書によってドイツ国首相に任命されるが、自らの意志でそれに背き、ヒトラーの後を追って家族(奥様と六人の子供たち)とともに自殺した。】 どこか日本人離れした顔立ちですよね。【映画の中で、ドイツ人の女性に箸の使い方を教えている場面です。】映画に字幕は無く、原節子さんは相手がドイツ人だとドイツ語で会話をしています。ですからこの映画は日本人のためではなくドイツ人が観るように作られたものだと思いました。このお話を書くにあたって、木村伊兵衛さんが本当にスチルカメラマンとして原節子さんを撮影したのだろうか?…と、映画に詳しい友人に聞いたら、『映画には終わりの方にエンドロールという部分があるから、そこにスチルカメラマンの名前だけではなく、制作関係者の名前もありますよ!』と言われて、もう一度最後まで見たのですが、何とスバッとエンドロールの前で切れていました。僕の推測ですが、この映画は戦後上映できなかったのかと思います。その理由ですが、当時の満州は日本の領土という時代です。戦前の映画ですから日本とドイツは仲良くしていましたから、占領軍の下ではこの映画はとても上映できるものではなかったのかと思います。原節子を撮ったタンバール!のお話し、如何でしたか…以上、永遠の処女とタンバールでした。塾長こと山縣敏憲 拝

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