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「悪魔の詩」作者のラシュディ氏、首など刺される 

2022年08月14日 外部ブログ記事
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 小説「悪魔の詩」を書いた作家が襲撃された。失明の恐れがあるという。まさしくタイトル通りの悪魔的事件を呼び起こす「悪魔の詩」関連の事件の様々。● 首と腹部を1回ずつ刺されたイスラム原理主義の間で、教祖マホメットを冒とくする内容として批判が高まっていた書物があった。それが「悪魔の詩」だった。原題:The Satanic Versesは、1988年に発表された、イギリスの作家サー・サルマン・ラシュディ氏がムハンマドの生涯を題材に書いた小説。ラシュディ氏の死刑宣告に続き過去に各国の翻訳者・出版関係者を標的とした暗殺事件が発生していた。8月12日、英作家サー・サルマン・ラシュディ氏(75)が、米ニューヨーク州での講演中に男に首などを刺された。ラシュディ氏はヘリコプターでペンシルヴェニア州の病院に搬送され、手術を受けている。「サルマンはおそらく片目を失う。腕の神経が切断され、肝臓を刺されて損傷を受けた」と、ラシュディ氏の代理人、アンドリュー・ワイリー氏は述べた。ニューヨーク州警察によると、男1人がステージに駆け上がり、ラシュディ氏を襲った。ラシュディ氏は少なくとも首と腹部を1回ずつ刺された。現在、外傷センターで手術を受けている。インド出身でイギリス国籍のラシュディ氏は、1981年出版の小説「真夜中の子供たち」で一躍有名になった。同小説は英国内だけで100万部以上を売り上げた。しかし、1988年出版の4作目の小説「悪魔の詩」をきっかけに、9年もの間身を隠さざるを得なくなった。超現実主義でポスト・モダンなこの小説は、その内容がイスラム教を冒涜(ぼうとく)しているとして一部のイスラム教徒の怒りを買い、いくつかの国で出版が禁止された。● 殺害した者に300万ドルの懸賞金出版から1年後、イランの最高指導者だったホメイニ師はラシュディ氏の死刑を命じた。ホメイニ師はラシュディ氏を殺害した者に300万ドルの懸賞金を支払うとする「ファトワ」(イスラム教の法学者が宗教的な立場から出す勧告や判断)を発していた。ルーホッラー・ホメイニー師はイスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の元首である最高指導者として、同国を精神面から指導した。革命達成後は一転して、世俗主義者や社会主義者を「イスラームの敵(カーフィル)」として弾圧するなど、事実上の宗教独裁体制を敷いた。さらに1988年に発表された、イギリスの作家サルマン・ラシュディがムハンマドの生涯を題材に書いた小説『悪魔の詩』を「冒涜的」だとして、1989年2月14日に著者のラシュディ、及び発行に関わった者などに対して死刑を宣言するなど、強権的な姿勢をさらに強め、イスラム教国を含む世界各国から強い反発を招いていた。1989年6月3日、86歳で亡くなっている。最期の言葉は「灯りを消してくれ、私はもう眠い」だった。● 五十嵐一氏の体には無数の切創群れ1991年7月12日に、日本で「悪魔の詩」を翻訳した筑波大学助教授の五十嵐一氏(いがらし ひとし:当時44歳)氏が殺害された。 五十嵐助教授は1990年4月号の「中央公論」に「私はなぜ『悪魔の詩』を訳したか」を寄稿し、その真意をあらためて語っている。「一読者として興味を覚え、かつ一イスラーム研究者としても、同宗教に対する冒涜の書ではないと判断したからこそ、翻訳を引きうけたのであって、何も言論出版の自由、表現の自由のためにひと肌脱いだわけではないのである」月刊誌「文藝春秋」1991年10月号の特集、「大型特集 真相未解決事件35」という記事から、麻生 幾(あそう・いく)の『「悪魔の詩」殺人 国家が封印した暗殺犯』から、抜粋していきます。五十嵐助教授は1991年7月12日の早朝に、大学校舎で午前8時過ぎに、女性清掃人により、発見されている。全身血だらけで横たわった状態で発見された。救急隊員が現場に到着したときにはすでに心臓が停止していた。搬送先の病院では死亡が確認されたが、余りに凄惨な光景に医療関係者も圧倒された。五十嵐助教授の体には無数の切創群れがあった。致命傷は、頸部の動脈と静脈の切断による失血死であった。それも首を完全に切断しようとしてズタズタに切り裂いていたマスコミは一斉に大騒ぎとなった。事件の約1週刊前に、イタリアのミラノでこの殺人を予測するかのような事件が起きていた。「悪魔の詩」のイタリア語翻訳者が何者かに全身をナイフで刺され、重症を負っていた。2年後の1993年、トルコ語翻訳者の集会が襲撃され、37人が死亡した。● 日本での事件は、暗殺団による犯行五十嵐助教授の事件の三日後、イランのバグダッドに本拠地を置いていたイランの反政府組織が、ある通信社に、(日本での)事件は、暗殺団による犯行だとする声明を送ってきた。その声明によれば、数人からなるいくつかの暗殺団が組織され、「悪魔の詩」の著者を処刑するためイギリスに送り込まれたほか、日本やイタリア、スイス、フランスなど多数の国へも派遣されたという。「悪魔の詩」殺人に関しては、犯行翌日の12日に出国した一人の男を、犯人の可能性が高いと見ていた。男の出身国は、イスラム文化圏の国。五十嵐氏と同じ留学生だった。五十嵐助教授が遺体で発見された7月12日の昼過ぎに、彼は成田を発って母国に戻っていた。報告書には推定殺害時刻「7月11日深夜から翌12日未明にかけて」という解剖結果も記されていた。だとすれば、彼の行動は、極めて意味深いものになる。しかし、この事実は、茨城県警特別捜査のごくわずかな幹部だけに伝えられ、厳重な箝口令が敷かれた。当時、警察庁の内部において、大激論が起きていたという。我が国始まって以来の、明らかなテロ攻撃であり、国家捜査の場に事件を持ち出すべきだという積極派。もう一方は、公表することで、イスラム文化全体を敵に回しかねず、それによる影響は図りしれないとする国益重視派だった。結論としては、国益重視派の意見が通ったということなのだろう。やがて、15年の月日が経ち、2006年の7月11日午前零時に事件は時効を迎えてしまう。救われないのは、結果的に命をかけて「悪魔の詩」を翻訳した五十嵐一氏であるが、今回のラシュディ氏の事件は、犯人が捕まり迷宮入りしなかったことだけがわずかな救いか・・・・・・。参照:ルーホッラー・ホメイニー   「悪魔の詩」作者のサルマン・ラシュディ氏、NY州で講演中に首など刺される   迷宮入りの「悪魔の詩」訳者殺人、問題にされた2つのポイント【平成の怪事件簿】 

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