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海老山(かいろうやま)城址 

2011年10月09日 外部ブログ記事
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海老山城址(かいろうやま)


海老山公園の造成により遺構のほとんどが破壊されています。

原状を利用して工事されたと考えれば、城は二つの郭と三つの小郭からなっていたようであす。

1郭は54m×20mの規模で、中央に櫓台がある。1郭南端には石垣を伴う虎口があり、2郭に通じています。
 
城跡の北側にある丘陵にも城域が広がっていたと思われるが、公園となっているためそれを確認することはできない。海老山周辺は宅地造成が進んでいるが、城が機能していた時期にはおそらく海であって、広島湾西岸に浮かぶ小島に城が築かれたものと思われる。

              『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』広島県教育委員会より

公園の案内看板
島(小山)の形がえびに似ていたので海老山城といいます。


一番したの広場


一番したの広場に護国神社があります。




東端には30人の墓。
厳島の合戦前に陶軍によって攻められ宍戸孫六以下30人が討死
それを悼んで建てられた墓とと伝えられています。

宍戸でも甲立の宍戸ではなく厳島神主家の神領衆の宍戸家です。

海老山城は五日市城(幸崎城)を本拠とする宍戸氏の支城でした。

五日市城の城主は宍戸備前守(宍戸弥七郎元続)の城だったそうです。

なお五日市城は現在痕跡がほとんど見られず、キリスト教会に看板があるだけです。

教会の看板



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まぎらわしいのですが、

関が原、朝鮮で活躍しのちに一門家老の筆頭で三丘宍戸家となる
安芸国五龍城主 宍戸 元続(ししど もとつぐ)とは別人です。

五龍城主の方は永禄六年(1563)生まれなので、まだ生まれてもいませんでした。

姻戚関係にあるのかどうかも分りません。



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三十人の墓


三十人の墓前より広場


公園内



西側が少し展望できます。宮島


海側に長い階段があります。


階段の途中に本来の大手道らしきものが見えます。


藪になっていますが、なんとか主郭に出られました。



岩の上に三角点があります。


説明板



岩上からの展望 広島市内(東)方面


南方


西方 宮島


石垣が主郭西方に少し残っています。


主郭にある厳島合戦説明

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