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草津城 

2011年10月08日 外部ブログ記事
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 文治元年(1185)に平氏が滅亡し、安芸国の武士の様相は一変します。

 平氏残党・源義経らの追捕のため、平氏方の在地領主に代り東国武士が安芸国の守護地頭として 置かれていきました。 
 
 承久三年(1221)の承久の変の結果、上皇方についた武士たちの所領は没収され新たに東国武士 が守護・地頭として補任されたが、これらの武士の多くはまだ東国に本拠を置いていた。

 文永十一 年(1274)の蒙古襲来を契機として安芸国守護の武田氏をはじめ、これらの武士もし だいに安芸国内の所領に本拠を移しその拠点として山城が築城されていきます。
 


 元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇を中心とした朝廷政権が成立しましたが,
 建武二年(1335)足利尊氏の挙兵をきっかけとして南北朝時代に突入し、
 全国で武士たちが南朝 方と北朝方に分かれて争い,安芸国内においても矢野城などを舞台とし て両者が戦っています。

 安芸国守護の武田氏は守護としての権能を利用して所領の拡大を図りますが、
 毛利氏・吉川氏・ 小早川氏・厳島神主家などの有力領主も自らの所領拡大を図ったため
 武田氏は勢力を伸ばすことができず,佐東郡及び山県郡南部を領国化するに留まっている。


 また、この頃の安芸国は西の大内氏と東の細川氏との二大勢力の接点となっており
 これらの武士たちも両勢力に分かれ、己斐・東西条などでたびたび抗争をおこしています。
 
 応仁の乱(1467 〜 1477)が始まると、安芸国内の武士たちは山名方(厳島神主家・野間氏・
 阿曽沼氏など)と細川氏(武田氏・毛利氏・熊谷氏など)に分かれて争っています。

 しかし,この時期の武士の動向は非常につかみにくく,その時々の情勢を判断し,都合の良い方 に組みするという離合集散を繰り返していました。
 


 永正5年(1508) 大内義興に従い上洛していた厳島神主家興親の死後、その相続をめぐる争い が起こったのに乗じ安芸国守護の武田元繁は、広島湾頭での勢力拡大を狙ったが、大内義興の命
 をうけた毛利元就の前に破れ去りました。

 その後、大内義興は帰国すると安芸国内での勢力伸長を図るため、厳島神主家の争いに付け込み 安芸国内に侵入し厳島神領を含む佐西郡を直轄領として己斐城・桜尾城・石道本城に城番を
 置きました。
 
 大永三年(1523)になると、応仁の乱が終った頃から細川氏に代り、しだいに勢力を伸ばして  きた出雲の尼子氏の安芸国侵入が活発化してきます。

 尼子氏は安芸国守護の武田光和等をもって、大内方の己斐城・桜尾城等の城を攻め落とし
 同年5月には、尼子経久自ら軍勢を率い大内氏の安芸国での軍要拠点である東西条の鏡山城を
 攻略しており、安芸国内における尼子氏勢力は急速に拡大していきました。
 
 しかし同年8月から大内氏の巻き返しが始まり、徐々に領土の回復を図り
 天文十 年(1541)1月には大内方の陶・毛利の連合軍が尼子軍を敗走させ、5月には武田氏の 本拠である銀山城を攻略した。


 その結果、安芸国はほぼ大内氏の勢力下に入り銀山城・槌山城・桜尾城などの重要拠点には大内 氏より城番が配された。
 
 
 天文二十年(1551)陶晴賢によって大内義隆が倒された後、その間隙を縫って毛利元就は
 広島湾頭に向けて勢力を伸ばし銀山城を含む佐東郡を手中におさめました。
 
 さらに、毛利氏は大内義長・陶晴賢と対決する姿勢をとり、
 天文二十三 年(1554)に己斐城・草津城・桜尾城等の城を手に入れ,安芸国内における大内氏 勢力の一掃を図りました。
 
 毛利氏は弘治元年(1555)の厳島合戦で陶晴賢を、同3年(1557)には大内義長を討ち
 中国地方を治める大守にのしあがり、安芸国もこの安定した政権の下で新しい時代を迎え
 るに至った。

 しかし、この政権も長くは続かず慶長5年(1600)の関ケ原の戦で、徳川家康率いる東軍の前に
 破れ去った毛利輝元は萩に転封され代って福島正則が安芸・備後の領主として入りました。

 福島氏は,交通の要衝に位置する城郭の強化に努めたが、
 元和元年(1615)幕府により一国一城令が出された後、山城はその役割を急速に失っていった。
 
 草津城について,文献上にその名称が現われるのは
 大永4年(1524)6月7日付の「大内氏奉行人連署書状」が初見であり、
 草津城は遅くとも大永三年(1523)には,その存在が示唆される。
 
 この頃の佐西郡は大永三年(1523)前半期に尼子氏を後ろだてに己斐城・桜尾城等を攻略し、
 広島湾頭に侵出した武田氏勢力と同年8月からその領土の奪回を狙う大内氏勢力との接点となっ ている。
 こうした状況下で大内氏は同年末までには佐西郡の中ほどに位置する草津城を勢力下に置いてい たと考えられ,このことは,佐西郡における尼子氏勢力の分断を図るという意味から,
 本城が重要な役割を果たしていたことを示唆している。
 
 その後もこの地は重要視されたとみて幾度か攻撃をうけている。
 
 天文二十三年(1554)に厳島合戦の前哨戦として、草津城は仁保城・桜尾城等の城とともに
 毛利元就により攻略されておりこれを境として広島湾頭は毛利氏の勢力下に組み込ました。

 しかし、大内氏は広島湾頭を奪回するため、警固奉行人の職を白井氏に与えており
 これに応えて白井氏は活発な軍事活動を展開し天文二十四年(1555)1月には草津城下を襲い
 船を奪っています

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