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住吉阿倍野の歴史の道をゆく〜天神の森天満宮〜 

2011年10月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

天神の森天満宮
 
 
 
由緒

 
天神の森天満宮は
「紹鴎森天満宮」  「子安石天満宮」  「天下茶屋天満宮」
     と他に三つの呼ばれ方があります。                             
 
主祭神は菅原道真。
応永年間(1394〜1428)に北野天満宮の分霊を奉じたといわれます。
 
現在の本殿は元禄十五年(1702)に建てられたものです。
 
この大きな木の根元に子安石があります。
豊臣秀吉公も淀君懐妊のとき。当社に安産の祈願したと伝えられます。





子安石

 
参道から。   構え獅子の狛犬。  

 
 
鳥居


 
 
天下茶屋跡
 
天下茶屋の地名は、かつてこの地にあった茶屋の名に由来します。 
 
この地は、古代、「天神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森の茂った鄙びた土地でした。
そこに湧く水の良さに着目して茶室を建て、森を切り開いて道をつけたのが、
千利休の師にあたる武野紹鷗でした。                        
 
以来この地は「紹鷗の森」とも呼ばれるようになりました。               
 
天正年間 (1573–92) には楠木正行の十世孫であるという初代芽木小兵衛光立が
この森の西側を開き、ここに茶屋を出しました。                        
 
三代目芽木小兵衛昌立のとき、住吉神社を参拝した豊臣秀吉がこの地に立寄り
 
この芽木家の茶店から清泉を汲んでお伴の千利休に茶を点てさせたところ、
味の良さに感激。そこでこの泉に「恵の水」の銘を、芽木家に玄米年三十俵の
朱印を与えました。                                     
  
  そこから関白殿下の「殿下茶屋」、天下人の「天下茶屋」などの名が知られるようになったと伝えられています                               
 
 
                                                天神の森天満宮からすぐの天下茶屋跡
 
 
 
 



 
 
正圓寺(しょうえんじ)
 
天慶二年(939)光道和尚により開基。
当時は、現在地より東に500mのところにあった般若山阿部寺の一坊であったが、
元禄時代(1688〜1703)に義道見明和尚が寺を移転し、海照山正圓寺と改めた。
 
本尊は木彫の大聖歓喜双身天王(歓喜天)で、これは日本最大です。
秘仏のため公開されていません。
 


 
本堂
 
 
 
 
境内の狛犬。
出雲地方でよく見られる構え獅子です。
 
小玉を持っています                                        

こちらは子持ち

 
 
 



 
 
 
 
松虫塚
 
松虫塚の伝説は、いろいろと伝えられています。
その1つに後鳥羽上皇(1183〜98年)の官女松虫、鈴虫が法然の念仏に発心し、
 
承元元年(1207)法然が土佐に流されたのちに、松虫がこの地に庵を結び隠棲した所であるとの説(「芦分船」)』。                               
 
また、『昔、ある人が親友と二人で阿倍野の松原を通ったが、うちの一人が松虫の音に聞きほれ、草むらに分け入ったまま帰らないため、捜しに行くと友人は草のしとねで死んでいたので、泣く泣く友人を葬ったのが松虫塚であるとする説(謡曲「松虫」)』他にいくつかの伝説が残っています。
 

 
この一角には「松虫塚」と彫られた石碑が沢山建っています。
中には屋根つきの石碑もあり、これが一番年代物と思われます。




 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松虫塚を跡にし熊野街道を通り安倍清明神社へ
 
熊野街道は、京から大阪を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社
熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。紀伊路とも呼ばれました。

 

 
 
 
                                                                                                                                                                                                                                                                       
 
                     安倍清明神社                                      
安倍清明神社(あべせいめいじんじゃ)は、安倍王子神社の北方約50mに鎮座する安倍王子神社境外社(飛び地境内社・末社)。

社名の通り祭神の安倍清明はこの地で生まれたと伝えられています。
社伝(「晴明宮御社伝書)によると創建は1007年(寛弘4年)で、代々晴明の子孫と称する保田家が社家として奉仕し、江戸時代には代々大坂城代が参拝にくるほど有力な神社であったが、幕末には衰微し、明治時代には小さな祠と下記にある石碑のみになってしまったという。
しかし明治時代末期になると復興計画が持ち出され、1921年(大正10年)には安倍王子神社の末社として認可された。社家の子孫である保田家より旧社地の寄進を受け、1925年(大正14年)現在の社殿が竣工した。拝殿は三間社入母屋造で本殿は
流造です。
      

        
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
        
           安倍清明像

 
説明板   


  
 
                                      
                                                                     
 
 
阿倍野神社
                                              安倍晴明神社のすぐ南に大阪に残る唯一の王子社、阿倍王子神社がある。


阿倍王子神社は仁徳天皇によって創建され、平安時代の天長3年(826)
弘法大師が淳和天皇の勅命で当社に参り疫難退散の祈祷をして成功し、
痾免寺の勅額を賜ったという。                           
    
阿倍野は古代の豪族阿倍氏の居たところで、奈良時代には氏寺阿倍寺があり、「阿倍寺千軒坊」と伝わるほどの大寺であったという。           
阿倍氏がよそに移住し、さらに阿倍寺も四天王寺に併合される中、
熊野信仰が盛んになり熊野街道の道筋に、この寺があったので熊野王子となりました。                                      
 
ちょうど四天王寺と住吉大社の中間にあり王子社にふさわしい場所でした。
現在も面影を残し都会の真ん中にありながら大木がありいい雰囲気です。               

 




 
拝殿

 
よく木が残っています。

 
反対側の入り口
社務所のビルがあり境内とは全然雰囲気が違います。


 
 
    
北畠顕家の墓碑
 
いよいよ最後の訪問地となりました。
北畠公園(大阪市阿倍野区王子町3丁目)にある北畠顕家の墓碑。
 
「別当鎮守府将軍従二位権中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」と
刻まれた見事なものです。                                 
 
ただし、もとは「大名塚」と呼ばれた阿倍野古墳群のひとつで、古松一株ある塚
でしたが、享保八年(1723)並河誠所(なみかわせいしょ)がこれを顕家墳墓だと
 断定し、建墓したのによります。                                 
 

伝・北畠顕家の墓
 








 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
またちんちん電車に乗り帰路に着きました。
 




 
      これだけの史跡を一日で廻ったのは初めてでした。
     朝早くの出発で、結構歩きましたが心地よい疲れでした。
 
  案内役の磐座亭さんはバリバリの郷土史家で、古墳から神社仏閣まで幅広い
知識の持ち主です。
 
相当の歴史通であろう今回の参加者も皆満足されているようでした。
 
参加者は私を除き60代から80代までで、とても元気な方たちでした。
あの歳になってもこれだけ歩き回れるか自信がもてません。
 
あらためて備陽史探訪の会のすごさがわかりました。

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