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己斐(こい)城跡 (平原城跡) 

2011年09月25日 外部ブログ記事
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己斐(こい)城跡 (平原城跡)

己斐氏によって築かれたと伝えられています。

永世十二年(1515) 武田元繁に包囲された時
「武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず」(房顕覚書)と記されており、
その頃堅城を誇っていました。

当時の城主は、己斐豊後守師道入道宗端でした。

己斐宗端は永世十四年(1517)に武田元繁陣営として
有田合戦で毛利元就勢と戦い討死しました。

辞世の歌を残しています。
「残る名に かなえば何か 惜しむべき 風の木葉の 軽き命を」(陰徳太平記)

勇猛と義に厚い武将として著名でその死が惜しまれました。
 
その後は
大内家で謀反をおこした陶氏の支配となりました。

毛利氏と陶氏が反目すると毛利元就は佐東銀山城・己斐城(平原城)・草津城・桜尾城など
陶氏が津和野攻めのため防御の薄くなった城を次々と攻略します。

堅城といわれた己斐城も毛利氏の手に堕ちました。

以後、己斐氏は毛利氏の武将として活躍した。

己斐宗端の子・己斐豊後守直之は厳島合戦で宮尾城の城将となり毛利方の猛将として名を知られ、

さらに弟の己斐利右衛門興員は、後に広島城(鯉城)二の丸御番をつとめました。


登り口 階段


けっこう長いです。広い階段だけで200段くらいあります。


コンクリートの斜面に上がり撮った海側
階段からは小学校の校舎があり、何も見えません。


ここからさらに階段


古い石段になってきました。


東郭下に着きました。下から20分位でした。
ほとんど階段なので早いです。


東郭下から見た本丸。


大きい岩に階段が加工されています。


東郭



東郭から下りる道を進む。
竪堀風?のものもありましたが、蚊に追われ引き返しました。


東郭から見た本丸


桂原天神跡
祭神は菅原道真。古くから祀られていましたが、寛延2年(1979)に旭山に遷座されました。


桂原天神跡の裏から北郭となっていますが
藪化&藪蚊で行く気になりませんでした。


東郭から本丸に登る道。ご親切にロープが張ってあります。


本丸上



説明板


本丸からの展望(望遠)この下まで海でした。


空堀をはさんで二の丸が続いています。
だいぶ浅くなっています


二の丸


二の丸の下の西が西郭、南が南郭ですが
今回は蚊に負けました。行くのをあきらめました。

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