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洞雲寺 お彼岸墓参り  陶 晴賢の墓なのか? 

2011年09月24日 外部ブログ記事
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洞雲寺にお彼岸の墓参りに行きました。
以前は田んぼの中の古刹という感じでしたが・・


今は小山や田がすべてなくなりました。
さらに寺の前に道路が出来、住宅が立ち並びます。



墓参りも済んだので、下にある陶晴賢の墓を見に行きました。


説明板


説明板にも歴史上著名な武将の墓として貴重であるとされていますが・


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この陶晴賢の墓が、陶の墓ではないと疑問を提出されている方もいます。

郷土史家の故石田米孝氏で、『廿日市の歴史探訪』という本を書かれた方です。
 
石田氏は陶晴賢の墓が所見されたのは浅野藩で編纂された芸藩通志によるものであることを指摘されています。

それ以前の洞雲寺の墓についての伝承は、佐方村下調帖(1618年)という記録によれば、
 
往古ヨリ有来墓所
  1. 厳島下野守教親墓
  2. 厳島上野介興藤墓
  3. 毛利治部大輔元清公墓
    毛利元就公四男、長州長府御領主元祖 同御内室墓
  4. 大江元澄墓   長州家臣桂氏ノ元祖
とあるだけで、陶晴賢の墓についてはまったく記載がありません。

1618年の時点では、洞雲寺には陶晴賢の墓の伝承は無く存在も確認されていなかったということになります。
 
ところが芸藩通志で、陶晴賢の墓が突然登場します。
石田氏の推測によれば、陶晴賢の墓のすげ替え事件は以下のような顛末であったろうと推測されています。

芸藩通志を編纂していた担当者たちが、洞雲寺に来て調査してみると、
あれだけ有名な陶晴賢の墓がない、または特定できない状態にあった。
 
しかし、洞雲寺で陶晴賢の首実検を行い塚を立てたことの史実はあるわけです。

史実はあるのに陶の墓がないのはおかしい。
寺にも陶の墓と伝承されているものが記載されていない。

そこで担当者たちがとった行動はそれらしき立派な墓を陶晴賢の墓と指定したのではないかという推測です。
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陶氏の墓の近くに厳島上野介興藤墓(友田興藤)の墓があります。

16世紀前半神領衆(厳島神主家被官)を率いて大内氏と戦った厳島神主です。

天文十年(1541)興藤は、大内氏に対して蜂起。
海賊衆の村上三家を呼び寄せて厳島を占領するとともに桜尾城に篭城しました。

大内方の反撃は鋭く大内水軍を率いる黒川隆尚が厳島を奪回。
ついには桜尾城に火をかけて切腹しました。

この宝篋印塔の基礎には天文九年(1540)の刻銘があり、興藤が在世中に建立した逆修塔とみられています。


石田氏の説を裏付けとなるでしょうか

  友田興藤の墓の後に陶晴賢の墓と同じ型の墓があります。


左が友田興藤の墓の後の墓            右は陶の墓


大きさも一緒のようです。
下部の丸い印も同じ。上がちょっと短いです。
友田興藤の墓から一つ失敬しちゃったとか・ありえますかね。

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