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敏洋’s 昭和の恋物語り

敬愛する 芥川龍之介 を語る (作品) 〜羅生門〜 

2020年08月09日 外部ブログ記事
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芥川の作品中、最初に本格的に読んだ作品である。
いつだったろうか、中学一年か二年だったと思う。芥
川の名前は、『トロッコ』という作品によってのみ知るだけであった。
その頃の私は、何故か日本の民話に強く惹かれ、読みあさったものである。
図書館での民話の冊数は帯びただしかった。都道府県の数だけあったと思う。
しかしそれを、毎日毎日睡眠時間を削って読破した。

現実にはあり得ない事柄の中に、或種の快感と不安を覚えていた。
まだ幼かった頃、よく父にイラン国の王子様と、そこに住む魔法使いの話を、寝物語に子守歌の代わりによく聞かされたものだ。
その幼い頃の、怪異物に対する好奇心からか・・・。
又は、煩わしい現実から逃げる為か・・・。
非現実的な怪異物を好んで読んでいた気がする。

最近、芥川の作品を読む時も民話を読んだ時も、同一の心境ではなかったかと思い始めている。
確かに、中学二年まではそうであったろう。
しかし、中学三年あたりから様子が変わったような気もする。

芥川も、幼少年時代には非現実的な怪異物を読んだということである。
その理由には、彼の持って生まれた本能の他に、彼の育った本所小泉町周辺の「本所の七不思議」というような、怪談めいた気味の悪いお竹蔵や、薄暗い割下水に江戸そのままの面影を残していたという。

その為か、少年時代の彼は、こういう怪異話を聞かされていた。その為に
「夢とも現実ともつかぬ境にいろいろの幽霊に襲われ勝だった」と、芥川自身言っている。
それは、彼の虚弱な体質や神経質な怯え易さ故か、
「落ち葉焚き 葉守りの神を 見し夜かな」という俳句からも窺える。
しかもこれが、尋常小学校四年の時に作ったというから、驚かされる。
この幻想的な句は、少年としては異色な秀抜な句というべきだろう。

確かに、芥川は異常だった。
俗人とは、およそかけ離れた人間だった。
そしてそれが、長所であり短所でもあった。
幼年時代の、妖怪を信じ超現実世界を恐れつつも慕った彼の性癖は、成人となっても失われなかった。
どうやら、これがミステリー的小説に傾倒していた所以であろう。

芥川の生涯の作品を貫く一つの特色は、まとまりすぎる程にまとまっているにも関わらず― いやそれ故か ―、人を感動させる力に欠けていることである。
私の学友で、彼の作品に感動したという者は皆無である。
面白い、とは言うけれども。
額縁に、ちんまりと行儀良く入っている絵画で、その額縁の外にまで溢れる程の迫力は感じられない。
その正確さ・器用さは、一面から言えば、常に完璧を目指す必死の努力と精進のたまものであろう。

その根拠はここにある。
とに角芥川は真面目だったようだ。
トルストイの『戦争と平和』の長編を、三日間で読破したなどというエピソードがある位だから。
漱石らを驚かせたのもムリはない。
三日三晩寝ずに、などということは芥川には問題にならないらしい。
読む楽しさに囚われていた。
勿論それらが、彼の健康を害したことは言うまでもない。

ところで「羅生門」の時代背景は、平安時代である。
一見何でもないようだが、ここにも彼の苦心の跡がうかがえる。
芥川が、或テーマを捉えてそれを書こうとし、それを芸術的に最も力強く表現するには、異常な事件が必要になってくるのである。
その場合、異常であればあるほど良いだけに、彼の生きた明治・大正時代では書きにくかったらしい。
強いて書けば、不自然の観を読者に起こさせて折角のテーマがムダになる。
犬死にだと考えたからである。
芥川は、その時代背景にも真実性を持たせる為に、又彼の古典的趣味のせいもあり、原典を古典に求めた。
『羅生門』も然りである。

相当に話が横にそれていたが、本題に入ろう。
この主人公の下人は、生きる為には盗人となるより仕方ないと思うが、その決心がつかない。
羅生門の上で、死人の髪を引き抜く老婆を見て― 先に盗人になろうとしたことも忘れ ―正義感にかられその老婆を斬ってすてようとする。
しかし、死人も生活の為に悪を犯した女だと聞き、下人も決然として引剥になり老婆の着物を剥ぎ取る、というストーリーである。

私は、言いようのない空しさを感じた。誰をも責めえない。
無理に責めようとすれば、下人を責めねばならない。
下人の存在そのものを、である。
然にも悪にも徹しきれない不安定な人間を、芥川は浮き彫りにしてみせたのである。

内容は勿論、文章にしても実に真に迫っている。
鋭い描写である。
特に、羅生門上の死骸の描写は、私の背筋に水を流し込んだ。

ところで、この『羅生門』や『鼻』等を書く前に、芥川は失恋したらしい。
それ故に、人間のエゴイズムを見事に暴き出したり、無理にユーモラスに書こうとしたらしい。
が、ユーモラスな物として書いた『鼻』が、果たしてユーモラスかどうか、それは次に述べることにする。

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