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雑感日記

南鮮合同電気の検索で、祖父の写真に初めて出会った 

2011年07月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★東京電力も、関西電力もそして九州電力も、昨今どうもそのイメージはよろしくない。
利権企業の性格丸出しで、電力と言う公共性の強い商品を扱っているのだから、その社会的責任はより高いものを求められるべきである。
原発の利権にしがみつく様は、少々みっともないと思ってしまうのである。
電力会社はケシカランと思う反面、私自身電力会社には、少しだけだが関係はあるのである。
 
昨日は暇にまかせて、『南鮮合同電気』を検索してみたら、こんなサイトが現れた。
古谷修一と言う伯父の名前も載っていたし、
太田電気と言う会社の名前も出ていて、
私は、会ったこともない『おじいさんの写真』も載っていたのである。

兵庫県 明石水力電気の重役だった古谷虎雄は渡鮮してすぐ忠清南道の江景で江景電気株式会社(創設:西島寅吉)の設立に動きました。
江景電気の社長になった古谷虎雄は忠清道の中心都市である大田の将来が有望であると考え大田電気会社の株を買い取り、大正9年 社長に就任しました。
 
江景電気はその後 南朝鮮電気に譲渡
大正13年 社長の古谷虎雄が亡くなると息子の古谷脩一が後を継ぎました。
本社:大田府本町2丁目写真:大田電気沿革史から
 
と書かれていた。
明石で電気会社をやっていたことは聞いていたが、その名前が『明石水力電気』だったことも初めて知ったし、
『江景電気』なども初めて聞く名前である。
大体、祖父の写真を見たのは、初めてである。銅像ではずっと見ていたので、大体面影は解っていたが、写真を見るのも初めてだし、
大正13年に亡くなったと言うことを知ったのも初めてである。そんなことをまさかネットの検索で解るとは思いもよらなかった。
 
★さらに、こんな記述に続いていた。
『新社長を専務:川島由三郎、常務:青柳八百造、支配人:竹内清次郎が支えて大田電気は順調に発展していきました。
昭和12年 戦時体制をつくり、電気事業を統制するため朝鮮総督府は南朝鮮のすべての会社の合併を命じました。 大田電気株式会社と傍系の電気会社はすべて 南鮮合同電気株式会社に吸収され消えることになりました。 』
聞いていた話では、祖父がなくなった時、伯父も、父も早稲田の学生か卒業したばかりで、番頭さんたちが会社を支えたのだと、ここに名前のある川島さんも、青柳さんも、私は知らないのだが、支配人の竹内清次郎さんは太田で直ぐ隣の社宅に住んでおられたし、コドモだったがよく覚えているのである。
 
★このブログで自分史を書き始めたのは昨年のことだが、
その最初のころ、何回目に、
『私の人生川の中で始まった?』と言う私の4歳ぐらいの想い出、竹内さんのお兄ちゃんと一緒に川の中で魚を追っかけていたことから、人生の記憶は始まっている。
● 私の記憶で一番旧く一番鮮明に覚えているのは、『私の人生の始まり』とも言える記憶は、今の韓国のちょうど真ん中辺りに位置する、『大田の川の中』から始まっている。お隣の竹内さんのお兄ちゃんと、家の直ぐ近くの川の中にいた。鯉か鮒か、何かよく解らぬが魚を捕ったのか、捕ってもらったのか?
と書きだしている。
 
その竹内さんのお兄ちゃんが、番頭さん竹内さんの息子さんで、阪大の教授になられたと言うことは、伯母などから聞いて知っていたのだが、そのごお会いしたこともない。
人生で1回、太田の川の中に一緒にいただけだが、想い出だけは鮮明なのである。
こんな記述も見つかったので、間違いなく阪大の教授になられているのである。   そして・・・
 
望郷の韓国大田(テジョン)・・・・・と言うサイトに、大久保 舜司さんが、
『…電力会社の重役であった竹内さんと言う方の息子さんが、阪大天体物理学の教授となり奥様に京都の任天堂の社長の娘さんを迎えられたのですが・・・・・などの記述も見つかったのである。 
 
昨今のネットの検索は、ホントにスゴイと思う。
●(実は最初の自分史を書いた時に『太田電気』が検索で出てますよ、とわざわざ教えてくれたのは、東京の大和屋嘉平さんなのである。昨日たまたま、そのメールを見つけて、一度調べてみるかと、検索をしてみたのである。大和屋嘉平さん有難うございました。)
 
★小学校に入る前に、何故か太田から京城(今のソウル)に移っている。
昭和12年に総督府の命により『南鮮合同電気』に合併になって、その本社が京城にあったこともその理由かも知れぬが、母方の実家がやはり朝鮮で事業をしていてその事務所が京城にあったからかも知れない。
ただ、父は南鮮合同の株ぐらいは持っていたのかも知れぬが、直接は関係ないし、特に何処かに勤めたりしていたわけでもない。家で絵を書いたりしていたが、母方の事業を手伝ったりしていたのかも知れない。
伯父は、南鮮合同電気の副社長をしていて、定位置は明石だったのだが、年に何度も京城には来ていた。子供がいなかったので馬鹿みたいに私を可愛がってくれた。新聞に自分の人事往来の記事が出ているだろうと、小学生の私に自慢で見せたりしていた。
記録を見ても、株は沢山持っていて、『これはお前にやる』が口癖だったのである。
 
 
★その南鮮合同電気の株券の写真も見つかったから、ホントに驚きである。
終戦後、会社がどうなってしまったのか?株がどのように処置されたのかは知らぬが、
『株券とは紙屑になるもの』と言う印象が、抜けきらずにずっと株などには近づかなかったのである。
 
『南鮮合同電気株式会社』 朝鮮では一番の電力会社だったし、ひょっとしたら日本でも大きかったのかも知れぬ。確かガスも扱っていたはずである。
そんなことで、海流発電のノヴァエネルギーの広報のお手伝いを、やりだしたころも、
『電力には、ご縁があるのかな?』と思ったりしたのだが、、
そのころにも、電力会社の原発一筋、『要らぬことは言ううな』のスタンスを見て、
『これはダメだな』と思ったりしたのである。』
最近は、大会社の社長さんだと言っても、サラリーマンからの出世で、ご自身で事業を立ち上げたわけでもない。
そう言う意味では、明治生まれの人たちは、みんな事業家なのである。
伯父はともかく、『おじいちゃんは偉かった』らしい。 生前伯母がしょっちゅうそんなことを言っていた。
 
ひょんなことから、昨日は、写真の『おじいちゃん』にも初めて会えたし、
『南鮮合同電気の幻の株券』にもお目に掛ったのである。
太田で隣に住んでおられた、竹内さんのお兄ちゃん、元気にしておられるのだろうか?
 
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