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雑感日記

60年前の高校野球 

2011年07月23日 外部ブログ記事
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★昨日、高校時代の球友、溝畑のことを書いたものだから、急に高校時代の頃を思い出した。
折しも、夏の予選最中である。
1950年と言えば60年も前の話である。そのころの話を今の若い人たちは、どのような感じでお聞きになるのだろうか?
私が小学校の時に、戦争が始まった。日本国中大変で、野球どころではなかったのである。
小学校時代、野球をした覚えはない。当時の中学校野球大会も5年間ほど中断されていた。
昭和21年に再開されて、そのころは中学1年生だったが、兵庫県は芦屋が有本のスローボールで優勝した。明石球場での予選だったので見に行ったしよく覚えている。キャッチャがギッチョだったが、左のキャッチャを―を見たのはこのときだけである。
戦後の子供のスポーツは野球中心だった。 原っぱの三角ベースの野球など、まず野球をしなかった子はいなかったぐらい盛んであった。
 
★私は、旧制中学の最後の年次で中学は神戸一中、高校は学区制が実施されて明石高校なのだが、戦後の野球は公立校が何故か強かったし両校とも在籍中に甲子園に出場していて、当時の兵庫県で強かったのは、芦屋、明石、神戸一中、神戸ニ中、滝川などが甲子園の常連組で中でも、芦屋が圧倒的に何度も甲子園に出場しているし、全国制覇もした時代だった。
神戸一中の時にも春、夏2度甲子園に出たのだが、このときは、ベンチに入れないスタンド組だったが、中学、高校の6年間で、3回甲子園に出たチームにいたことになる。大学の野球部時代は神戸ニ中の先輩方がいっぱいいて、甲子園経験者はいっぱいいたのだが、そんなに際立って強くもなかったのは、ピッチャがよければ勝てるということかと思う。野手は大したことはないのである。
今とは、全然レベルが違うのだが、まだ私立校がメンバーを集めていなかったのかも知れない。
明石高校の時は、私の1年下ぐらいから、選手集めが始まって、姫路や飾磨あたりから、いっぱい入部してきた。
 
まだ、『名門明石』と言うことで、通っていた時代である。『名門明石』は昭和8年の中京―明石の25回戦で一躍有名になり、そのおかげで『名門』などと冠を付けられていたのだと思う。
ちなみに、私は昭和8年生まれだから、その後夏の甲子園には17年間も、出ていないのに、25回戦の印象が強烈だったのだと思う。
 
★確かに、そのころは強かったようである。楠本、中田という両エースがいて、記録を見ても完封ばかりである。やはり野球はピッチャーなのかもしれない。
私が明石の現役のころは、その25回戦当時の先輩がお元気なころで、横内さん、嘉藤さん、峯本さんなどしょっちゅうグランドに来られたし当時の野球部長竹山九一先生もずっと顔を出されて、野球の技術面よりもむしろ精神的に厳しい躾が身に付いたように思う。
兎に角、私の年次旧制中学最後の学年は、2年になっても下級生は入部してこないのである。中学1年から高校1年生までの4年間、『最下級生の補欠生活』を体験したのである。
小学校の頃までは、結構やんちゃで、ガキ大将だったのだが、この4年間で、『辛抱する』ことがホントに身に付いたのである。
今と違って、ボールは糸が切れたらもう一度縫い合わせていて、それが仕事みたいな野球部生活だった。授業中にもボールを縫っていたりした。
 
★あのころは暑くなかったのだろうか?
練習中は『水を飲むな』が当たり前だった。 水も飲まずに、夏は真っ暗になるまで、練習だった。まだ食料事情も悪く、栄養状態もダメだったのに、熱中症でなぜ倒れなかったのだろう。
高校1年生の年昭和24年は、確かサマータイム制であった。うす暗くボールが見えにくくなるころまで、ノック、暗くなってランニング、球場整備して着替えるころは、1年生は10時になっていたて、毎晩家で晩飯を食うのは12時近くになっていた。
昭和25年にサマータイムはなくなって、ほっとしたのである。
『水は飲むな』『肩が冷えるから泳ぐな』『練習は暗くなるまで』全く科学的ではなかったのである。
 
★兵庫県は、予選は西宮球場か甲子園球場で行われていたから、甲子園が特別な球場だともあまり思わなかった。甲子園の土など持って帰るなど考えもしなかった。
明石時代は、後援会組織がしっかりしていて、金もあったのか、夏の前の練習は、ずっと明石球場だった。
当時の明石球場は春にはジャイアンツがずっとキャンプに来ていた球場で、甲子園も明石球場も、広すぎて(と言っても今と同じだが)当時はラッキーゾーンがあったのである。今と違って木のバットだったからというより、技術的にダメで、ラッキーゾーンでもホームランは練習でもとても打てなかった。
ジャイアンツがキャンプに来ても、旧フェンス越えのホームランなど滅多に見られなかったのである。川上、千葉、別所、宇野などの時代、プロレスのジャイアント馬場がいた。
現役のころは金属バットも、ヘルメットもなかったから、ヘルメットはごく最近の大学のOB総会の時の野球で始めてかぶった。
ちなみに長嶋茂雄は2年後輩だから、たぶん彼の時代も大学ではヘルメットはなかったのではないだろうか?
そんな時代なのに、デッドボールをよけたら『怒られたり』した。
 
 ★60年経って、もう野球の質が全然違うのである。
まず基礎体力が違うし、バッテングも、守備のグローブさばきも、スタイリングも、スローィングも・・・今の選手と同じくらいのレベルで、間違いなく出来ると思うのは、『送りバント』ぐらいだろう。
そんな時代の野球だが、野球をしていてよかったな、とホントにそう思っている。
 
同時代のプロの選手で、試合をしたことがあるのは、
阪神の吉田義男さん、昨日も書いたが、甲子園出場後の豊岡市の招待試合で、京都山城高の3番を打っていた。
同じく阪神の小山投手、高砂高校で一つ下である。 高校の時は有名でもなかった。同じ地区だから当たっているだろうと思っているだけである。
確かタイガ―スには練習生か何かで入ったのではないか? 大学のリーグ戦が甲子園球場だったので、まだ2軍の頃の有名でない小山投手よく知っている。
野村さんも、3年ほど下だから・・・『おじん』だということである。
 
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