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敏洋’s 昭和の恋物語り
九州旅行 〜ルーツ探しの旅〜 (十九)四日目:学び舎への道、そして、よっ、姉御!
2019年08月27日
テーマ:テーマ無し
長々とおばちゃんと話をしてしまいました。
今思うと、なにか買わなくちゃだめでしたね。
どうもそういった世間的な常識に欠けるわたしでして、いつも後になって後悔するのです。
ごめんなさい、おばちゃん。
そこで、この旅行記を読まれた方で、もしも昭代第一小学校近くを通られることがありましたら、是非にも何か一つお買い上げ下さいな。
バカなお願いだとは分かっていますし、万に一つもあり得ないことだとは思いますが、こんな風に宣伝することで、わたしの心の痛みが少しは和らぎますので。
ほんと、自己チューなわたしです。
どうしてこんな自己チューなわたしが誕生したのか、この旅行で明らかになるかもしれませんね。
さあそれでは、次の目的地へ向かうことにします。
福岡県久留米市篠山小学校、です。
えっ? それをご存じですか? 素晴らしい!
*久留米絣(くるめかすり)は、福岡県久留米市および周辺の旧久留米藩地域で製造されている絣。
綿織物で、藍染めが主体。
あらかじめ藍と白に染め分けた糸(絣糸)を用いて製織し、文様を表す。
伊予絣、備後絣とともに日本三大絣の一つともされる。
久留米絣の技法は1956年に重要無形文化財に指定され、1976年には通商産業大臣により伝統工芸品に指定されている。
南方から琉球を経由して伝わった絣と別に、江戸時代の後期に、井上伝という当時12歳の少女が創始したとされる。
久留米藩が産業として奨励していた。
一時は年間200〜300万反を生産したが、戦後は洋装化により絣の需要が激減。
現在は少量の生産にとどまるなか、久留米絣を用いたスニーカーやカバンといった新商品開発など、新たな動きも出てきている。−−−−−Wikipediaより
[久留米市]
篠山小学校に通っていたといっても、住居は田舎でした。
それがどこだったのかが、今となっては分かりません。
汽車通学をしていたという記憶が、しっかりとあります。
電車ではありませんよ、「シュッシュッ、ポッポ」の蒸気機関車です。
D51? C63? 何だったでしょうねえ。
[レンゲ草]
[レンゲ畑]
一面が田んぼで、春先にはレンゲ草が一面に咲き誇っていました。
蝶々もたくさん、ひらひらと飛んでいました。
化学肥料が自由に使われるようになるまでは、緑肥(りょくひ = 草肥:くさごえ)および牛の飼料とするため、8−9月頃、稲刈り前の水田の水を抜いて種を蒔き翌春に花を咲かせていた。
これはレンゲ畑と呼ばれ「春の風物詩」であった。
化学肥料は、20世紀に入ると生産が本格化したが、原材料が軍事物資という側面があり農業分野で大量に使用することがはばかられていた。
このためレンゲを水田や畑に緑肥として栽培することで化学肥料の使用を抑える手法が取られていた。
戦後は、化学肥料の大量生産や使用が自由になったこと。
また、保温折衷苗代の普及によりイネの早植えが可能になり、緑肥の生産スケジュールと被るようになったことも、レンゲ畑が急速に姿を消す原因の一つとなった。
−−−−−Wikipediaより
畑と言えば、麦も植えられていました。
ただ、その種類は分かりません。
この記憶が事実かどうか判然としませんが、その麦の中に黒い穂がありました。
触れるとその「黒」が付いてしまうのです。
ズボンやらの服に付いた状態で帰宅し、母親から叱られたものです。
そうだ! 叱られたと言えば、こんな言葉を大声で叫びながら帰ったものです。
近所の悪ガキとともに、畑のあぜ道を
「はらへったあ、めしくわせえ!」と、連呼し続けたものです。
[バスセンター]
久留米駅の前に大きな建物があり、そこから各方面のバスが発着していました。
現在は無いようですね。
というより、まるで面影がありません。
再開発されたのでしょう。
そのお隣に喫茶店がありまして、大きな硝子窓がありました。
そこで大事件です。
大人たちが、飲み物とともに、ショートケーキを頬張っているんですね。
それがうらやましくて、羨ましくて。
(大人になったら、ぜったい食べてやる!)と、決意したのです。
[バスルート]
大きな声では言えない、これもまた大事件があります。
汽車 → バス を使って小学校に通っていましたが、いつも同じバス車掌さんでした。
定期券を使っての通学ですが、結構大人たちが顔パスで降りていくんです。(これ、覚えておいて下さいね)。
勿論、朝の通学時ですよ。
ある日のことです。いつものようにバスに乗り込んで、顔なじみの車掌さんに「おはようございます」と挨拶します。
ギューギュー詰めで、酷いときには、乗降口のドアを開けて、車掌さんは身体を外に投げ出すような感じです。
発展途上国のニュースで見た経験はありませんか?
日本でも、昭和30年代前半では当たり前のシーンでした。
で、降りるときに、定期券を忘れてきたことに気が付きました。
もう、ドキドキですよ。
「ていきけん、わすれました。ごめんなさい」
ひと言そう言えば、大目に見てくれると思いますよ。
でも、言えないんですね。
そのまま顔パスしちゃったんです。
ひょっとしたら、顔を真っ赤にしていたかもしれません。
案外、車掌さんはお見通しだったかも? です。
問題は、帰りです。
もう顔パスは通用しません。
いえ、事情を話せば、その車掌さんも顔見知りだったろうし、「いいよ」と、当時ならば言ってくれたと思うのですが。
駅まで、歩きました。ところで不思議なのが、バスの顔パスは覚えているのですが、汽車はどうしたのか……、定期券です、汽車も。
今と違って、駅員さんが特別な切符切りハサミを、リズム良くカチャカチャと鳴らしながら、切符の受け取り定期券の確認をしていました。
汽車の定期券も当然ながらありません。
朝は、どうやって降りたのでしょうか? 誰か、教えて下さいな。
そうそう、帰りです。
いつも汽車通学です、レールの上をガタンゴトンと揺られています。
道路沿いばかりではありません。
鉄橋を渡ることもあったろうと思いますし、田んぼやら畑の真ん中を横切ったりもしたでしょうし。
駅まで歩く――駅まで行かなければ、家まで帰るルートが分からないのです。
芥川龍之介作の「トロッコ」という作品、覚えてらっしゃいますか?
あの作品の地を行きました。
トロッコはありませんでしたが、レールの上を一人でトボトボと歩いたのです。
ススキあたりを振り回しながら、大声で歌ったりしたと思います。
そしてそして、ボロボロと大粒の涙を流して、誰も助けてくれないという現実と戦ったのです。
助けを求めないー求められない自分を呪いながらも、そんな自分を愛おしく思いながら、一人トボトボと歩いたのです。
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