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尺八と横笛吹きの独り言

新田義貞・下藤沢・飛竜神社・熊野神社・馬坂 

2019年02月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し




本日はひょんなことで、鎌倉攻めをして鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞にズームイン。新田義貞が軍勢を率いて地元、下藤沢の地を踏破していた。さっそく史実にもとづき歴史散策してみたら・・・・・鎌倉古道の馬坂(うまさか)がありました。地元の方で何人の方がこの史実をしっているかしら・・・・・誰も知らないかも・・・・・。そして飛竜神社跡の石碑も、人がようやく通れる藪の中に見つかった。2/18(月)暖かい春の日に、散策を決行した。
鎌倉幕府を打倒するため、上野国(現・群馬県)の武将・新田義貞は元弘3年(1333年)5月8日に挙兵、出陣した。

鎌倉街道を南下し現在の埼玉県の入間市と所沢市の地域一帯で、壮絶な戦いが北条軍と繰り広げられた。その史跡が「小手指ヶ原古戦場跡」として言い伝えられている。

 また、国道463号バイパスには「誓詞橋」という地名があり、ここで勝利を祈願したとも伝えられている。http://shonenji.net/nitta/

熊野神社の伝説によると、新田義貞が鎌倉攻めの時、元弘3年(1333)5月8日上野国の生品明神で旗揚げをして出陣し、翌9日此の地、下藤沢明の沢に着陣したところ、南方から一羽のカラスが飛来して、義貞の旗の上に止まったといいます。義貞は、日本一霊験あらたかな紀州熊野宮の飛竜の神の援護であると喜び、ついに鎌倉攻めに勝利し、帰途再びここに立ち寄って飛竜神社を建立したといいます。
●入間市上藤沢付近・歴史散策
少々見にくいが拡大ボタンで大きくなる。①馬坂 ②飛竜神社跡 ③熊野神社 ④新田橋⑤ 馬の涙


 ⑤「馬の涙」と呼ばれる遊水地がある。馬坂を上り下りするときに馬は涙を流して水を飲んだといわれている。河岸段丘のハケにあたり、湧水していた。いまは跡形もなく崖があるだけだ。

●馬坂(うまさか)・・・・・鎌倉古道
この坂を数千とも20万ともいわれる武者が布陣し休憩をとったところだ。急こう配です。ここから小手指が原にむけてカチドキをあげたのだろうか?


















●新田橋・・・・・この橋を数千の武士団が渡ったのだろう。
新田橋とう名前がついている。


●飛竜神社跡の石碑と熊野神社

遠くのマンションの左下。赤〇あたりに飛竜神社跡の碑を見つけた。人知れずありました。





この熊野神社は、以前は現在地より北西の台地上にあった飛竜神社を、村の中央に移したものが今の熊野神社であるという。
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/kakuchi/sayama01/umasaka.htmlより転載




 新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。
軍記物語『太平記』においては、前半の主人公。の一人とも言える存在である。
鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
 
 
鎌倉末期・南北朝時代の武将。朝氏の子。元弘の乱に千早城攻撃に参加したが帰国して挙兵、鎌倉を攻撃して幕府を滅ぼした。建武政権から上野・越後・播磨を知行国として与えられその武者所頭人となったが、足利尊氏と対立して敗れた。暦応元年(1338)歿、38才。
ディジタル大辞典より。
 
新田義貞公は、1300年(正安2年)群馬県太田市に、新田朝氏の子として生まれました。新田家は八幡太郎に繋がる源氏の名門です。その頃、鎌倉幕府の政治は末期で、民衆は困惑していました。そこで、義貞公は、1333年5月8日に新田荘の生品神社にて、倒幕の兵を挙げたのです。利根川を渡って南下し、5月22日には難攻不落の鎌倉の幕府をわずか15日で、壊滅させました。
 
後醍醐天皇により倒幕の功を認められ、従四位越後守及び上野・播磨両国の介に任命されました。ついで左近衛中将・武者所の頭人になりました。この時の政治を『建武の新政』と言います。
 
しかし足利尊氏が天皇に反旗をひるがえしたために、後醍醐天皇(南朝方)からは足利追討の宣旨を得るにいたります。足利氏も天皇(北朝方)を擁立したため、この時代を『南北朝の動乱の時代』と呼びます。
 
しかし後醍醐天皇を取り巻く公家たちの失政により、南朝方は奮(ふる)いませんでした。1336年に全国を転戦していた新田義貞は勢力を盛り返すべく、越前に恒良親王・尊良親王を擁護して奮戦します。1338年(延元3年)7月2日灯明寺畷の戦いにおいて、眉間に矢を受け戦死します。義貞公の遺骸は葬礼のため時衆の僧(時宗の陣僧)8人により、長崎の道場に運ばれ、ねんごろに葬られました。時に39歳でした。主君を失った多くの家来も長崎の道場にて、出家したことが『太平記』に記載されています。明治天皇は、明治15年に「正一位」を追贈しました。



●新田は鎌倉を憎む
互いに争った足利氏と新田氏は先祖を同じにする同族同士でした。どうぞくだったのにいつしか敵味方になった。



以前から新田氏本宗家は北条得宗家と対立関係にあり、またもともと広大な新田荘を持っていた新田氏でしたが、新田義貞の代でその所有量は減り、このよなことから同祖である足利氏と比べ鎌倉幕府から冷遇を受けるようになります。
そのため、新田義貞の地位は低く、無位無官でした。しかし同祖の足利尊氏は新田義貞に比べ地位も高く、また元服と同時に従五位下・治部大輔に任じられるなど、幕府の中でも信頼されるようになります。
足利尊氏との間でこのような格差が生まれ、新田義貞は生涯、足利尊氏に対しライバル心を抱くのでした。https://history-men.com/nitta-yoshisada/

●YouTube 60年も続いた南北朝争乱時代
https://youtu.be/hYipWhLxAqg

 ●新田義貞出陣・・・・・大河ドラマ
https://youtu.be/MuVa3YLvias

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