メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

白虎隊飯盛山での自刃者6名 

2018年07月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



会津藩白虎隊の運命

 ☆鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発
 ☆本来、白虎隊は予備兵力(隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、340名程度)
 ☆会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった
 ☆会津藩の装備は、新政府軍の装備に対して著しく劣っていた
 ☆会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく若松へと至る街道口に主力部隊を展開
 ☆本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊
 (主力部隊を支援する形で前線への各防衛拠点へと投入された)

白虎隊士中隊の戦い
 ☆一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たった
 ☆二番隊(20名)は戸ノ口原の戦い他で、戦死者を多く出し敗走
 ☆負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた
 ☆飯盛山へ落ち延びたのは、20名中6名
 (残り14名は、逃げるときの戦いで死亡又は負傷)
 ☆飯盛山から見た市中火災を若松城が落城と誤認し6名が自刃
 (飯沼貞吉は、一命を取り留めたので、白虎隊19名が死亡した)
 ☆実際に城は落ちておらず、籠城戦は1ヶ月続いが会津藩は降伏した
生き延びた飯沼貞吉
 ☆電信技士として維新後を生き抜き、79歳で没した。
 ☆飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だった
 ☆「士中二番隊」の隊士酒井峰冶の手記が近年発見された
 ☆飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された
 (飯盛山の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、BSTBS『諸説あり』、WIKIPEDIA










会津藩白虎隊の運命(BSTBS『諸説あり』テレビ画面より画像引用)

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ