宗教日記

ほんとうの信仰に至るためには 

2018年04月01日 ナビトモブログ記事
テーマ:宗教

自分が生きているのではなく
生かされているということ。

このことが信じられるかどうか。
仏教にせよ、他の宗教にせよ、
宗教の神髄はここにある。

私もそうだったが、
「ああ、そんなことわかっていますよ」
と多くの人はいう。しかし、
それは、頭でわかっているにすぎない。
このことがほんとうにわかるためには
自分を捨てなければならない。

では
自分を捨てるためにはどうすればいいのか。

キリスト教をやめて
仏教の学びなどをすることになり、
真理に至った方の話などから、
この道筋を知ってはいたのだが、
「自分を捨てる」ということを
いくら頭で理解しようとしてもだめだった。

また、「さあ、捨てよう」といって
自分を捨てる試みをしたりしたが、
その行為自体が
確固たる自分が残っている証拠であり、
自分を捨てることになってはいない。

しかし、ある時
自分を捨てる瞬間が訪れた。

子どもの頃から、
幸せになりたい、自分を変えたいと
努力してきた人生だったが、
この7,8年はとくに全精力を傾け取り組んだ。
そして、約2カ月ほど前、
最後の取り組みをしたとき、それは訪れた。

そのとき、人間関係の悪化でどうにもならなくなり
加藤諦三さんの本を買いふたたび読みふけっていた。
成功哲学や心理学系のものは
解決にはならないと頭でわかっていたが、
藁にもすがる思いで飛びついてしまったのだ。

加藤さんの本は3冊のセットものだった。
その中に記載してあった
詳らかな心の仕組みの説明に
私は目が覚めるような感動を覚えた。

しかし、3冊読み終えた時、私の中に
ふと、ある思いが湧いた。

これでは、解決などされない。。と

そして同時にこう思った。

50年もの間やってきた遍歴を
ふたたび繰り返そうとするのか?
心理学や成功哲学では解決できないと
わかっていたはずではなかったのか?

なにをやってもダメなんだ。。

人間関係がうまくできるようになんかならないんだ。
自分を変えることなどできないんだ。
「変わりたい」
「人生が上手くいくようになりたい」と
命かけるほどの情熱をもってやってきたことは
みな無駄だったんだ。。

深い悲しみ、嘆息、諦め、

そして絶望・・・

その時私は
「ああ・・」としか、
つぶやくことしかできなかった。


それから私は明らかに変わった。

「自分が生きているのではなく
生かされているということ」が
頭ではなく、
身体で感覚で感じられるようになった。
なにか全身で信じることができるようになったのだ。

何がどうなったのかそのときにはわからなかったが、
その数日後に買った鈴木大拙氏の本に
私の体験と同様の事柄が書かれてあるのを読んで
はじめて何が起きたのか知ることとなった。

このとき、私は自分を捨てたのだ。

大拙氏は次のように説明している。

「形而上学的に言えば、そういう瞬間は
われわれが本当に至心を経験する時であり、
キリスト者なら「自己の放棄」と
言うだろうところを経験する時であります。
自己の放棄は相対性の放棄であり、
それは主観も客観も
至心も至心ならざるものも知らない
内奥の自己へ参入することです。」
            (「真宗入門」p38)



拍手する


コメントをするにはログインが必要です

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ