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2017年11月26日 外部ブログ記事
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 好天に誘われて


 朝から快晴に近いお天気なので、家内と横浜市内の紅葉スポットを検索、都築中央公も入っていたので、近場ながら医落ち度ゆっくり散策しようと出かけました。先ず、センター南駅まで横浜地下鉄で移動、都築区役所を抜け中公園へ入ります。キャノンのカメラを持参して木々の紅葉を撮影しましたのでいずれシリーズでアップする予定です(本日のロダンのブロンズ像は国立西洋美術館にて。その後、上野公園の紅葉の模様を数枚アプした後となります)。

 都築中央公園は広々とした憩いの場ながら思いのほか散策している人が少ないのに驚かされました。公園に入るとすぐお寺さんが見えてきます。紅葉と竹林のバランスも良く、シャッターチャンスです。墓地も開発されており園内にお寺さんの所有地もあるようです。少し小山を上ると炭焼きのための施設があり、家内によれば、週末にはここでNPOの人たちが子供のための活動をしているとのことです。

 有料駐車場の近くの池の畔には鴨が数羽のんびりと遊んでいます。ここには子供連れの親子姿が見られました。鴨と、紅葉が水面に照らされこれもまたシャッターチャンス!。少し昇ると、円形劇場。石段の観客席はローマの遺跡でも真似たのでしょうか。大きな円形劇場ですが、何か上演でもされることがあるのでしょうか。都築区が新設されたときには、未だ横浜の財政が豊かでこのような投資がされたのかなとも考えたりします。頂上近くの見晴らし台には大きな、立派な、金属の輪のモニュメントが見られます。
 
 そして最後は古くから伝わる杉山神社。杉山神社の「いわれ」は下記のウキペディアの記載を参照願いたいですが、横浜つづき謡曲会(私の所属する地元の謡曲会)の長谷川代表は杉山神社を舞台に「都筑」なる謡の新曲を創作、毎年年初の初謡会には全員で合吟しています。という訳で、この神社も勿論しっかり撮影対象としました。遅めの昼食をセンター南のインド料理で食べ、帰途近くの干物店でアジ、キンメ等を買いこみ、夕食は干物料理でした。10,000歩を悠に超える健康的な、又楽しいい一日となりました。日々是好日。

杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大したとされるが、謎の多い神社である。鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在するが、多摩川を超えた領域には存在しない。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では杉山神社が全部で72社あると記されているが、その後の合祀や社名変更などにより現状で宗教法人登録されている「杉山」(椙山も含む)が付く神社の合計は44社となっている[1][3][4]。
平安時代の貞観11年(869年)に編纂された『続日本後紀』では「枌山神社」と記述される古社で、同書では当社が承和5年 (838年)2月に官弊を賜り、また承和15年(848年)5月には従五位下を授かった旨が記されている[4]。さらに延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』では「武蔵国都筑郡唯一の式内社」との記載もされている。しかしその本社は比定されておらず、未だ多くの論社が存在する。なお、論社のうち現在では横浜市(緑区西八朔町、都筑区中川および茅ケ崎中央、港北区新吉田町)にある4社が最有力とされている[5]。
「鶴見神社 (横浜市)#杉山神社と鶴見神社」も参照
名称の由来については、杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として使用されていた杉の木に因むという説など諸説ある[6]。また当社の由緒についても不明な点が多いが、出雲民族の末裔(五十猛命)が紀州熊野より海人族を引き連れて伊豆半島や三浦半島に辿り着き、後者を経由して鶴見川水系に住み着いた一族の頭領が杉山神社を創建したという説がある[6]。なお、三浦半島の三浦郡葉山町上山口には旧相模国で唯一の杉山神社があり、さらに同神社の「元宮」と呼ばれる社も周辺の山中に鎮座しているが[6][7]、旧武蔵国における杉山神社との関係は不明である。この他、茅ケ崎中央の杉山神社に伝わる由緒では「天武天皇白鳳3年、安房神社神主の忌部勝麻呂(紀州系忌部氏)によって武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命)の3柱が祀られ、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに神社も広まった」とされている。当時の都筑郡は開拓者である忌部氏の勢力が強く、多くの古墳や環濠集落が作られるなど武蔵国府の支配外にある一つの小国を形成しており、古東海道も横断する物資の集散地であった。ただし、杉山神社の始まりが忌部勝麻呂によるものとされることについては『新編武蔵風土記稿』で記載されているものの、他に文献資料などが残っておらず根拠としては乏しいとされる[1][5]。一方、上述の杉山神社のルーツとは別に、源頼朝縁の旧相模国土肥郷杉山における市杵島姫命(弁財天) を祀る「七杉山神社」(鎌倉の鬼門鎮護を目的に7つの祠を建立)とされる社があり、式内社論社の杉山神社とも一部重複している[8]。
なお、東京都墨田区千歳の江島杉山神社も本来は弁天社(江ノ島神社を勧請したもの)であり、「杉山」は杉山和一を祀っているため付いた名である。

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