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のびたの日記

悲惨な体験は語らない 語れない 被爆2世が替って伝える 

2016年08月05日 外部ブログ記事
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戦地から帰られた方 被爆者の方 空襲の体験をされた方 この方たちの口は重い
あまりにも怖ろしく むごい光景を思い出したくもない それは脳裏に病巣のように住み着いている
私の叔父は硫黄島で戦死した その知らせは1枚の紙切れだけだ 父母は何も語らなかった
 
戦死することは国のために闘い英霊となるはずだが 真の心は 招集された時から哀しみにあった
私の知人は 東京大空襲のあまりの悲惨さに 多くを語らず 多くの屍があった地には 近寄れない
広島・長崎に原爆が投下されてから やがて70年にもなるのに被爆者もまた語らずにこの世を去る
 

 
長崎の被爆2世の方が これらの方の代わりになって 原爆の怖ろしさ 平和の尊さを訴える
昨日の 鹿児島FM銀河のてんがらもんラジオのゲスト 岡本由美子さんが語っていた
彼女の父は長崎で被爆 多くを語らず 語れぬままに10年ほど前に この世を去った
 
被爆者であることさえ公表せず 晩年になって 被爆者手帳の交付を受けた
鹿児島だけでも 被爆者健康手帳を受けている方は現在761名居る
しかし 被爆の方々が作る協議会への参加は400名余と少ない
 
本来は原爆の被害者であるにも拘わらず 世間の目は偏見も加わり冷たい
そのため 被爆していることを隠している方も居る 結婚などでは障碍となったりする
2世である岡本さんは この方たちの語り部として 被爆者の声を聴き 戦争の虚しさを訴える
 

 
92歳になる女性の被爆者の話を聴いて 小説風にまとめて紹介している話が涙を誘う
そして自身も言葉に詰まり パーソナリティの皆さんも涙をこらえきれない
その女性の被爆の背景を わかりやすく物語に置き換えていた
 

 
仮の名を舞子と呼ぼう 舞子は奄美大島出身だが 鹿児島の女子高に通っていた
戦局厳しいころ 国の政策で女子挺身隊が各地で結成され 彼女もいち早く応募した
躊躇している女学生が多い中 舞子が言うならと 50数名が集まった
 
目的地も分からぬままに赴任させられたのが 長崎であり 運命の原爆投下に会ってしまった
幸い負傷はしなかったものだが 一緒に来た学生たちは 無残な姿となり 若き命を終えていた
自分が言い出さなければ かくも多くの仲間の命は失わなくても良かったのにと現在まで悔やむ
 
92歳になっても なんで私は助かったのか なんで生きているのか 贖罪の連日である
それでも 最後の姿を日々を 遺族の皆さんに伝えることが使命と 捜し歩き謝り続けた
会うのも拒否されたり 怒りをぶつける方も居たそうだ 彼女は被爆者でもあるのに・・・・
 

 
岡本さんは 昨年の鹿児島での原爆慰霊祭に 被爆2世の代表として平和宣言をした
その時の原稿を読んだ 戦争はしてはならない 被爆者を作ってはならぬ 核兵器は絶対許さない 
戦争は悲惨だ そして平和は尊い 戦争の気配がしたら その準備段階で阻止せねばならない
 
お父さん 原爆の被爆後は辛かったでしょう 痛かったでしょう
心の痛みを生涯持ち続けたでしょう 
私の力は微力 しかし 無力では無い 世界から戦争をなくすため 平和を守るため闘い続ける
 

左が岡本さん 中がブロ友でもあるchidori-tさん 鹿児島バスガイドの向井さん
てんがらもんラジオ http://www.ustream.tv/recorded/90257431
 
オバマ大統領が 今年初めて広島の爆心地を訪れた
しかし アメリカの世論は 原爆投下が無かったら もっと多くの日本人の命は失われた
従って原爆投下の意義がある 未だにこの主張も強い 核兵器が消える日はくるか?
 
恨みのヒロシマ 祈りのナカサキ こんな例えがある
長崎の教会のイメージと 長崎の鐘 の歌の永井博士の実話が せめてもの心の救いとなる為か
この歌を歌いながら 原爆犠牲者の鎮魂と 戦争で亡くなった方たちへの平和への誓いを込める
 
       最後までお読みくださいまして有難うございました m(_ _)m
 



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