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can sing 

2015年02月24日 ナビトモブログ記事
テーマ:音楽

女子マラソンの高橋尚子選手が、オリンピックで優勝した直後.。

「毎日80キロ走っているので、今日はたったの42.195キロ走れば良かった・・。」と、インタビューに応えて言っていた。

この言葉は、今も強烈な印象として、私の中に残っている。


ある友人が、演奏会の一週間くらい前には、本番の気持ちになって、立て続けに10回位弾く様にしている、と言っていた。

そうすれば、本番に際して、今日はたったの一回だからと思って、気楽に弾けるのだという。

同じ、発想である。


でも私は、「集中力は、そんなに長くは続かない」という思い込みがあるので、立て続けに繰り返す、という事はしたことがない。

本番前のリハーサルでも、大抵ホールの響きを確かめる程度で終えてしまう。


ウィーン・アカデミーで師事した先生は、「本番前の一週間くらいは、余り一曲を通して弾かない様に」とおっしゃっていた。

つまり、何度も重ねて弾くと、鮮度が落ちてしまうという、逆の発想である。


勿論、部分練習等は続ける。

指が鈍ってしまうから。


でも、最初から最後まで、通して弾く事を繰り返すと、曲に対する感動に慣れてしまう。

下手をすると、それがシステム化されてしまう、という発想。


自分にも、忘れられない経験がある。

今日はこれからレッスン、という日に、友人が我が家を訪ねてきた事があった。

丁度、シューマンの「謝肉祭」を仕上げた処だったので、聴かせてほしいといわれた。


大好きな曲だし、心をこめて弾いた。

友人の前というのは、先生の前というのとは又、違った緊張感が伴う。

まあ、ライバルだからだろうけれど。

その時は、自分なりに、会心の演奏だったと思う。


そしてその数時間後。

レッスンで同じ曲を弾いた時には、まるで、出がらしのお茶の様な気分だった。

もはや、単なる練習の成果を発表しているに過ぎない、といった状態に陥っていた。


私はその時、大きな学習をしたのだ。

凡人にとって、そうそう続けて、入魂の演奏等できるものではないのだ、という事を。


歌舞伎俳優の中村勘三郎でさえも、何かの対談で言っていた。

ある日の芝居で、とても気分が乗って、観客と一体になれたとする。

でも、翌日の舞台で同じことをすると、それはもう、気分を乗せる為の技術に過ぎなくなってしまう。


舞台は生き物、とよくいわれる。

或いは、魔物だとも。


ここのところ、真剣に生きている周りの人達の刺激もあって、またというか、またしても、学生の心持ちに舞い戻ってしまっている。



そして、心に突き刺さったのが、

昨日読んでいた、村上春樹の「やがて哀しき外国語」の中に出てくる

オーソン・ウェールズの作品からの引用文。


Some people can sing、others can't.


なんという、残酷な言葉だろう。

でも、これが真実なのだ。


そして、著書の中で、この文章を、あえて和訳しなかったところに、村上春樹のcan sing ぶりが、発揮されているのだと思う。

日本語に訳してしまうと、「何をいまさら・・」といった、軽い意味にニュアンスが変わってしまいそうだから。



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メンタルは・・。

シシーマニアさん

SOYOKAZEさん、こんばんは。

舞台で表現するには、本質的に向き不向きがありますね。人はそれを、才能と呼びますが・・。
でも、「それは習得できるものだ」と信じる処から、全てが始まるのかもしれない、と私は思っています・・。

2015/02/24 21:26:42

師匠!

シシーマニアさん

パトラッシュ師匠、コメントありがとうございました。

言ってみれば、私の人生は、こんな事を考え続けてきた歳月でした。
唯一、個性的なと言えるとすれば、この年齢になってもまだ、考え続けている事でしょうか。

拾い上げて下さって、ありがとうございました。

2015/02/24 21:18:07

体育会系の、詩人?

シシーマニアさん

吾喰楽さん、こんばんは。

ピアノを弾くのは、或る意味、体育会系なのです。どんな意味があるのかわからないながら、練習を数百回続けたりするのですから。
その上、詩人の様な感覚を併せ持つなんて、至難な業だとおもわれませんか・・?

2015/02/24 21:11:57

わかるような気がします

さん

こんにちは。

私も、ダンスのデモンストレーションの時など、当日は、部分練習と確認しかしませんでした。
気分を本番に向かって乗せるのは中々難しいです。
明くる日、同じ事をやっても気迫が違います。
照明と、音楽と、観客の拍手や真剣な眼差しで燃えます。

私は、構想が決まったらPCに向かわないと文字になりません。
向かうと、堰を切った言葉が瞬く間に紙面を埋めて行きます。

逆に推敲の時は、粗さがし、冷静な目と計算です。
足したり引いたりの作業を繰り返し、一番効果的かな?と思った所で終えます。

2015/02/24 09:40:35

うーんとうなりたくなるほどに・・・

パトラッシュさん

「鮮度」から、美的価値を創造しようとする際の、機微に踏み込んだところは、
非常に犀利です。
様々な分野において、役立つであろう、示唆を含んでいます。

狭い、シニアナビの世界に置いておくのが、惜しまれます。

2015/02/24 09:19:01

推敲

吾喰楽さん

おはようございます。

マラソンンとピアノ演奏は、体力を要する点では共通しています。
でも、音楽には感情の要素が大きいと思うので、その差なんでしょうか。

文章を書く場合、気持ちが乗っていると、どんどん筆が進みます。
でも、そのままの気持ちで推敲しても、限界があります。
個人差があるのでしょうが、私の場合は時間を空けて頭を冷やさないとダメです。

2015/02/24 08:35:25

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