メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

尺八と横笛吹きの独り言

逝く人、来る人・・・・人生は流れています。 

2014年10月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●fue民謡尺八の初舞台(師匠の後ろで伴奏しているのが私) 
初めて舞台に立ちました。50才頃かしら?
師匠が唄うのは「川越舟唄」(新河岸川舟唄ともいう)。たしか2尺1寸で吹きました。

写真に写っている私の民謡の尺八師匠が亡くなられました。享年83才(昭和6年生まれ)。
前立腺がを公表しており「手術をしないで頑張ってこられました」。
なんどかお見舞いに行きました。すでに立ち上がることが困難でようやっと会話をしてました。10月1日にお会いしたのが最後でした。
ご冥福をお祈り致します。
10月27日の午後逝去。これを孫の第二子誕生(女児)の病院で知らせを受けました。
悲しいやら、うれしいやら・・・・逝く人、来る人(生まれる人)・・・・人生ですね。
通夜が明日31日、告別式が11月1日・・・・隣町の文化祭での民謡伴奏、市の三曲演奏、夜の勤務、朝のパート・・・・これらと通夜と告別式の参列・・・・なんとかすり抜けそうです。
きわどいスケジュールになるがやむを得ない。
            
 
●師匠の「南部俵積み唄」の伴奏写真。
これは市の会場であろうか、私は横笛を伴奏している。
思い出します。市の民謡会では老舗の存在でした。一時は40名を越える会員がおられたようで・・・・体重90キロほどの巨体、存在感がある先生でした。
日民の尺八師範教授で市の11会派ある中で最も古い会派で、ここでの師匠の存在は大きかったように思われます。
 6年ほど前にこの会は解散致しました。
会の存続を相当に悩んだようでしたが、足腰が悪くなり「民謡会の解散」を宣言された。
 市の民謡大会の鉢洗いで会の解散宣言をいたました。
「会は解散致しますが・・・・これから弟子達が皆様のところにお世話になるかと思います。
どうか今後とも弟子達をよろしくご指導下さい」と最後の挨拶をされた。
30人ほどいました会員はそれぞれいろんな会派に行きまして、我々は会主のいない会を立ち上げたと言うわけです。

 
●師匠と記念撮影(舞台の合間に)
市の民謡会の演奏の合間に写真を撮ったものだ。
民謡指導では怖い先生でした・・・・
「俺の横で吹いても良いが、変な音を出すんじゃない!」
「舞台の上でも、唄う方の唄の前に伴奏を入れるんじゃない!」
ずけずけとバンバンと言われます。
尺八の伴奏については・・・・こまかな演奏技術、指の使い方などは指導されたことはほとんどありません。
「秩父音頭」・・・・はい!やってみい・・・・吹き方、持ち方も教えはありません。
聞いて見て覚える、職人気質。
「いやあ・・・・これはついて行けない。しばらくこの教室に48才で通いましたが・・・・これでは無理・・・・辞めようと思われました」
私は「音源をとり」・・・・懸命に練習。それと譜面なんぞというものはありません。
ただただ体に入魂するのです。
 尺八のお弟子さんは5〜6名はおられたようですが、どんどん抜けていき最後は私一人になったようです。そのご私は民謡尺八教授、民謡笛教授の二つの資格を取得できました。教授試験もありましたが師匠の推薦でお情けでなれたようなもんです。
指導は厳しいが・・・・細かなところで配慮される方でした。


●第25回大会出の写真。(赤丸は私)
たくさんの会員がおりました。三味線教授・民謡教授、尺八教授、笛教授、踊り教授・・・・様々な方がその後、資格を取られ後進の方の指導に進まれました。
プロの民謡歌手先生がお二人写っています。(亡くなった師匠の三味線先生)
この写真の方で4〜5名位はすでに他界されておりますね。

 
●第30回記念大会。H19年9月30日、私が59才の時。
私も一応は名取りでして雅号は弘童です。
来賓は現市長、旧市長、区会議員・・・・わたしが唄いましたのは「さんさ時雨」でした。
 師匠との様々なことが思い出されます。
いろいろありました。長い間の民謡人生、ご苦労様でした。
昨日ご挨拶にうかがいました。お顔はふくよかで安らかでした。
柩には愛した1尺8寸尺八が置かれていました。
 通夜と告別式に参列致します。
告別式では「追分」(江差追分)を連管で弟子一同が合奏する予定です。
ご冥福を心からお祈りいたします。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ