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「八重の桜とブラキストン」 

2014年01月17日 ナビトモブログ記事
テーマ:人生

 何十年も生きている過程では、さまざまなことを経験する。それらの経験のすべてを記憶していることはできない。できないが、思春期という何十年も前の時期に覚えたことを、その後もずっと記憶していることはある。

 私にとってのその例は、ブラキストンという人の名前である。

 思春期に聞いたNHKの連続ラジオドラマの中にブラキストンが登場する。そのラジオドラマは、夕方の放送であった。

 ブラキストンは、確か商人であり、津軽海峡を渡り、北海道を活躍の舞台とする。ラジオドラマの具体的なストーリーは思い出せない。ラジオドラマを聴いたのは、せいぜい数回だったと思う。

 しかし、ブラキストン、津軽海峡、北海道。この三点セットだけは、明確な記憶があるのだ。

 その後、高校時代の生物の授業中に、ブラキストンが出てきた。津軽海峡に重なって、動植物分布の境界線があり、その名をブラキストンラインということを知った。その時、再び現れたブラキストンが懐かしかった。


 北海道の南隣は、国際海峡の津軽海峡を挟み、青森県である。

広い北海道の地図を見ると、本州寄りの南西部に半島が横たわっている。渡島半島(おしまはんとう)だ。北海道の渡島半島と津軽海峡を挟んで向き合うのが青森県の津軽半島と下北半島である。

津軽海峡に沿って動植物分布の境界線が東西に横切る。この線の提唱者の名を取って、ブラキストン線あるいはブラキストンラインという。

 その提唱者とは、イギリスの動物学者のトーマス・ブラキストンである。ブラキストンは、動物学者のほかに、軍人、貿易商、探検家の顔も併せ持つ。幕末から明治期にかけて日本に滞在した。彼は、日本の野鳥を研究し、津軽海峡に動植物分布の境界線があるとみて、それを提唱した。

 ブラキストンラインを南限とする種がヒグマ、エゾシカ、エゾシマリス、ヤマゲラ、シマフクロウなどである。

 逆に、ブラキストンラインを北限とする種に、ツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンザル、ライチョウ、ヤマドリ、アオゲラがある。

 また、タヌキ、キツネ、ニホンリスは、ブラキストンラインの南北で、それぞれ固有の亜種がある。

 ブラキストンラインを北限とする植物で代表的なものは、ツバキ・椿だ。

 このように、イギリス人の動物学者にして軍人、貿易商、探検家の顔も併せ持つブラキストンの残した功績の中で有名なものは、ブラキストンラインの提唱であるが、そのほかにも大きな功績がある。

 函館地方気象台のホームページは、「日本最初の気象観測所」と題し、誇らしげに、日本における気象観測開始の古い順位を次のとおりに掲げている。
 
第1位 函館:明治 5年(1872年)
第2位 東京:明治 8年(1875年)
第3位 札幌:明治 9年(1876年)
第4位 長崎:明治11年(1878年)
第5位 広島:明治12年(1879年)

そして、ブラキストンに関して、次のように記述している。

 ブラキストンライン(津軽海峡を境とした北海道と本州の動植物境界線)を発見したほか、いくつかの科学的業績を残したイギリス人実業家ブラキストンは、元治元年(1864年)から明治4年(1871年)までの8年間、降雨雪日数を観測し、慶応4年(1868年)からは気圧や気温の観測を行っていました。

 開拓使函館支庁の福士成豊(ふくしなりとよ)はブラキストンの観測を引き継ぎ、船場町(現在の函館市末広町)にあった自宅に観測機器を設置してこれを「函館気候測量所」とし、明治5年(1872年)8月26日から観測を開始しました。これが我が国の気象観測所における気象観測の始まりです。

これによれば、「日本最初の気象観測所」は函館で産声をあげたのであり、その基礎を築いたのはブラキストンである。


 ブラキストンは、思春期に聞いたNHKの連続ラジオドラマの中に登場し、私は初めて彼と出会った。

 ブラキストンが再び私の前に現れたのは、高校時代の生物の授業中であり、津軽海峡に重なって、動植物分布の境界線があり、その名をブラキストンラインということを知った。

 そして、それから何十年も経て、ブラキストンは、みたび、姿を現した。

 昨年、放送されたNHK大河ドラマ「八重の桜」。綾瀬はるか演ずる八重。その最初の夫である川崎尚之助を演ずるイケメン・長谷川博己。 

 誠実さを醸し出すイケメン・長谷川博己と重なる川崎尚之助は、会津藩の存亡に重要なかかわりを持つ人物である。

 戊辰戦争に敗れた会津藩は、領地没収となるが、明治2年11月に家名存続を許され、現在の青森県の下北半島を中心とする地に斗南(となみ)藩を立藩する。

 斗南藩が領地を与えられたのは、盛岡を本拠地とする南部藩の旧領地の一部で、斗南藩領の多くは火山灰地質の不毛の地であった。

 本来的な不毛の地をあてがわれた斗南藩は、更に新政府からの扶助米も廃止され、窮乏を極めた。
 飢餓に苦しむ領民を見捨てることができず、川崎尚之助は、米の調達のため、 函館に渡る。

 川崎尚之助は、外国商人との間で、広東米を購入し、代金は斗南藩が将来収穫する大豆でもって支払う旨の契約をする。その際、広東米を受け取れる内容の米手形を取得する。

 しかし、外国商人との取引を介在した某日本人に米手形を詐取される。某日本人は、詐取した米手形を担保として、ブラキストンが経営する商会から借金してしまう。

 そんなわけで、川崎尚之助、外国商人、某日本人、ブラキストンを巻き込んでのトラブルに発展し、訴訟が提起される。
 川崎尚之助は、実際に、斗南藩の商取引責任者として、取引をしたのだが、斗南藩に迷惑をかけないという信念の下、自らの一存でした取引とし、全責任をかぶることにする。

 そのため、川崎尚之助は、妻の八重に累が及ぶのを防ぐべく、その当時米沢で生活していた八重に離縁状を送る。この夫婦は、戊辰戦争での会津鶴ヶ城の落城以降、生き別れのままである。

 誠実さを醸し出すイケメン・長谷川博己が熱演する川崎尚之助の立ち居振る舞いや物言いは、切なく、物悲しい。

 そして、生涯、妻の八重を愛し、それゆえ、八重を離縁した川崎尚之助に日本男子のプライドを見る。

 川崎尚之助は、不遇のうちに38年の生涯を閉じる。86歳まで生きた八重は、おそらく生涯の途中で川崎尚之助の真心に気づいたはずだ。川崎尚之助の心中をおもんぱかるとき、そうであることを信じたい。

 大河ドラマ「八重の桜」の真のテーマは、作者の思惑に関わらず、川崎尚之助とその妻八重との夫婦愛である。

 私が三度目に会ったブラキストンがそのように教えてくれている。



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ブラキストンさん

さん

史実を丹念に調べていますね。
気象台は一度だけ見学しました。

函館山展望台の西側にブラキストンの石碑がありますが、見学者の多くは
東側の市内全景のほうへ行くのでブラキストン石碑はひっそりの感。

川崎尚之助と新島襄は対照的な個性に思います。

2014/01/18 10:48:51

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