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スーパースター「ふじ」の親「国光」の思い出 

2014年01月11日 ナビトモブログ記事
テーマ:人生

今や、全世界で最も多く生産され、販売されているりんごは、英語表記では「FUJI」、日本語では「ふじ」である。世界のスポーツの中でメジャーはと言えば、サッカーであるように、世界のりんご界で、「ふじ」は、メジャーであり、スーパースターである。

 日本でも、「ふじ」の生産量は、1982年(昭和57年)に「デリシャス」系を抜いてから、連続の第一位、しかも近年はダントツの第一位を続けており、我が国りんご界でも、文句なしのスーパースターである。

 スーパースター「ふじ」は、日本一のりんご産地、津軽の生まれである。「ふじ」の両親の片方は、自らが生産量で1982年(昭和57年)に追い抜いた「デリシャス」であり、もう片方は、「国光」である。


 「ふじ」の両親の歴史を振り返る。

 「ふじ」の片方の親、「国光」は、アメリカ原産であり、原名は、「ラルズジャネット」という。「ラルズジャネット」は、1871年(明治4年)に来日し、来日後、一時期を経て、「国光」と命名された。

 「ラルズジャネット」は、アメリカでは、主要品種つまりレギュラーになれなかった。しかし、明治の初めに太平洋を渡り、日本にやって来て、花開いた。それも、とてつもなく大きく、花開いたのである。

 こういう例は、その後におけるプロ野球界の出来事の先例みたいなものだ。つまり、昨年、2013年に、アメリカでは大リーグに定着すらできなかった選手が日本にやって来て、長年誰も破ることができなかった、世界の王貞治選手のシーズン最多本塁打の日本記録を破った。

 アメリカ原産の「ラルズジャネット」こと「国光」は、青森県の津軽の気候や土壌がベストマッチし、青森県の優れた栽培技術と相まって、瞬く間に、日本のりんごの主要品種になった。

 そして、「国光」は、単なる主要品種どころか、基幹品種として、「紅玉」とともに、明治、大正、昭和にかけて100年間にわたって、日本のりんご産業を支え続けた。

 「ふじ」のもう一方の親、「デリシャス」は、アメリカ生まれの品種で、全世界での生産量では、現在でも、1位の「ふじ」に次いで、2位の生産量を誇っている。

 「デリシャス」が誕生後にアメリカの種苗会社の社長が食したとたん、「おお、これはうまいデリシャス)!」と叫んだことで、名称が「デリシャス」に決まった。

 「デリシャス」は、アメリカでの命名以降、世界で、もちろん日本でも「デリシャス」である。
 「デリシャス」は、アメリカではもちろん、全世界で、「ふじ」に次ぐスーパースターである。

 「デリシャス」は、アメリカで、「国光」こと「ラルズジャネット」に遅れて誕生し、「ラルズジャネット」の来日の40年後、1911年(明治44年) に来日した。

 1968年(昭和43年) 、みかんの大豊作とその価格下落に連動するように、「国光」や「紅玉」が暴落を続けた。

 これを契機として、1969年 (昭和44年) 以降は、「国光」や「紅玉」から「デリシャス」系へ品種更新が急ピッチで行われていった。「国光」や「紅玉」にとって代わって、「デリシャス」系の生産量が第一位となった。

 しかし、「デリシャス」系の第一位の座は、10年ちょっとしか続かなかった。1982年(昭和57年)に「ふじ」の生産量がデリシャス系を抜いてから、「ふじ」は、30年以上も連続の第一位をキープしている。

 1939年(昭和14年)に、青森県南津軽郡藤崎町で、「国光」×「デリシャス」の交配が行われ、種子が得られた。その23年後、1962年(昭和37年)に、「国光」×「デリシャス」の交配による実生(みしょう)が「ふじ」と命名されて品種登録された。「デリシャス」系への品種更新に次いで、「ふじ」への品種更新も急ピッチで行われていったのである。

 1871年(明治4年)に「ラルズジャネット」こと「国光」が来日してから、今年で140年余。この間、我が国におけるりんごの品種別生産量では、「国光」と「紅玉」でのダブルスでトップの時代が100年続いた。その後は、「デリシャス」で10年、「ふじ」で30年以上の順で、トップの時代が推移してきている。

 「ふじ」を基点にしてみれば、「ふじ」の片方の親、「国光」の時代が100年続き、次いで、「ふじ」のもう一方の親、「デリシャス」の時代が10年続いた後に、「ふじ」の時代が30年以上続いていることになる。

 
 二十歳の時、仙台での大学生時代にギックリ腰をやった。

 晩秋のある日、下宿先の二階の自室にいたときだ。「ニモツガオグラレデキタヨワ!! オリデキテハコンデイッテケサイ!!」と大家のおばあちゃんの大きな声。「荷物が送られて来ましたよ!! 降りてきて運んで行って下さい!!」と叫んでいるのだ。

 急いで階下に降りた。いつも腹を空かしているような貧乏学生にとって、荷物が届くイコール食い物が届くを意味していた。

 大きなダンボール箱は、ふるさと津軽の父母から送られてきたものだった。
 ダンボール箱に記載されている文字から、その中身はりんごであることが分かった。

 それを持って、二階に運ぶべく階段を昇った。りんごを一つ早く食べたかった。

 その途中で、滑って階段から転げ落ちそうになった。荷物が来たよ、の声に急いで階下に降りたために、スリッパを履かずに靴下のままだったのだ。
 階段からの転落を防ぐため、グウーッと腰を入れた。
 
 その瞬間、腰に痛みが走った。
 結果はギックリ腰。

 ギックリ腰で寝ている間、りんごを食べた。りんごは「国光」だった。「国光」を青森県では「雪の下」とも言った。国光の収穫期は、11月上旬以降と晩く、樹上のりんごが雪の下になることもあるからだ。

 寝ながら「国光」を食べて、青森と父母のことを思った。



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りんごの思い出

さん

りんごが遠い思い出につながっているのですね。
ご両親への想い、腰を痛めた辛い思い出。
色々な甘酸っぱい思い出に・・。

2014/01/12 08:48:32

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