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雑感日記

神戸一中、有終会 

2010年08月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


神戸一中に入学したのかは前々回のブログにもちょっと書いたが、私は、どうも一般の方に比べて、自分自身の進路などあまり興味関心がないのである。子供のころから、『何になりたい』などとは本当に思った記憶がない。ソウルの中学校の進路も親父の言う通りの学校に行った。なぜ京城一中に行かなかったのか?入学できないような成績ではなかったが、多分そんな遠いところに通わなくていいと父が判断したのだと思う。神戸一中も自分が行きたくて行った学校ではない。結果的にそこに入学しただけのことである。明石高校には、学区制でそこに行かざるを得なかったのである。大学も1月に父が亡くなって、治療費が要らなくなったので、伯父が行けと言ったので試験を受けたら通ったまでのことである。神戸商大を選んだのは、試験科目が少なかったからである。就職先の川崎航空機も伯父の葬儀の時に、砂野仁さんに『うちに来い』と仰っていただいたので、試験を受けたようなものである。もう少し詳しく言えば、昭和31年の卒業時点で単位が不足などなかったのだが、砂野さんが『今年は取りにくいので来年まで学校に残れ』と仰るので、5回生の1年間野球部の監督をしていて、昭和32年に川崎航空機に入れて頂いたのである。運がよかったのだろうが、あまり試験など受けたことはないが、運転免許の試験も含めて、今まで試験に落ちた経験は一度もない。大学入試も就職試験も1校、1社だけである。自分の進路や職位など勝手に願ってみても決して思うようにはならないものであると思っている。ただ、与えられた職責は100%自分の思うようにやれたと思っている。★神戸一中もなぜか無試験で入学できたのだが、父が『無試験で入れたのだから、ちゃんと勉強せい』と言うので中学校の時はよく勉強した。私が通った学校の中で、何処の卒業ですか?と学校名を聞かれたら『神戸一中』だけが胸を張って応えられる学校のような気がする。それは、『勉強した』と自分でも思うからである。そういう意味で学校と言う本来の勉学をしたのは、神戸一中のときだけである。そして、レベルも高くいい学校であった。高校も、大学も、ほとんど『野球部の卒業生』と言う感じで、いい学校ではあるが、そこで勉学にいそしんだ実績は皆無なのである。昭和21年からの3年間、明石から灘まで電車、灘からは徒歩で『地獄坂』を歩いて通った。1年生のころは、明石と言っても疎開先の伊川谷からの通学だったので、今思えばよくもまあ通えたものである。電車の本数も少なかったし、窓ガラスの代わりに板を張り付けた電車もあった。通学に2時間以上掛ったのではなかろうか。★日本の教育制度が変わる真っ只中で、いわゆる旧制中学の最後の学年なのである。翌年からは、新制中学制度が出来て、旧制の神戸一中には新入生は入ってこなかった。野球部にいたが、中学3年間と高校1年の4年間、運動部の最下級生の経験をした。この4年間の経験はよかったと思っている。 少々の文句やきつい上級生の指示にも耐えられる体質が身に付いた。この経験からか、われわれの運動部の年次はみんな後輩たちに優しい。私は会社で部下を頭ごなしに怒ったりしたことはタダの一度もない。ホントは無茶苦茶気が短くて直ぐアタマに血が上る性格なのである。会社では辛抱出来たが、警察では辛抱出来ずに札幌の警察署で文句を言っていたら、どんどんアタマに血が上って『クモマッカ』で倒れたような経験もある。倒れた場所が警察だったので、すぐいい病院に運んで貰って、今元気にしているのである。ちょっと、脱線したが、人間運だと思っている。与えられた環境の中で最善を尽くすのがいい。ああしたい、こうなりたいと思ってみても、世の中簡単に自分の思い通りにはならないのである。戦争がなかったら、どんな人生になっていたのか、想像すらできないが、多分今より面白い人生が歩めたとも思っていない。現在も含めて、私の歩いてきた道に大満足なのである。★非常に気に入っていた『神戸一中』』なのだが、高校は学区制で地元の明石高校に入学した。昨年、神戸高校の第50号の記念会誌が送られてきて、いろいろ思い出したし、知らなかった記述もあった。、昭和22年、まだ男女共学にはなっていなかったと思うが天皇陛下の関西行幸があって、その宿舎に神戸一中の教室が改造されて当てられたのである。いまどき考えられないと思うが、私のクラスは『天覧授業』も受けたのである。泊られた部屋は3階で見ることもできなかったが、お車などはすぐ近くで見ることができたのである。『天皇陛下が行幸された学校』とはいかなる学校かと、その後GHQの調査があって、『英才教育をしている』ことが問題だと言うことになり、学区外から通学通勤している生徒や先生は、強制的に転校させられたのである。この対象となったのは、われわれの学年だけである。大勢の学生や先生が神戸高校を去ったのだが、先生も含めて大勢の人たちが、『灘高校』に転校したのである。灘が今のような灘高校になったきっかけかも知れない。★私たちは神戸一中に入学し、変則的に3年で神戸高校併設中学の神戸一中の最後の卒業生なのである。そんなことで同期会の結束も固く、同窓会もよくあるし、毎年同期のゴルフコンペの案内も頂くのだが、あまり出席したことはない。その同期会の名を、有終の美を飾ると言う意味で『有終会』と名付けている。これも、その会誌の中の記述で知ったのだが、海軍兵学校の卒業生の会も『有終会』だそうである。神戸一中は無くなったが、神戸高校として受け継がれている。そういう意味では、海兵の同窓会も消えゆくだけの運命である。同じように私の小学校、京城桜ケ丘小学校の同窓会も、海兵よりは多分長く続くだろうが、いつかは消えゆく運命にある。戦後65年、これらも65年前の話なのである。そのころの方で有名人は、高島忠雄が1年上で、扇千景さんは同じ年次である。こんな激動の時代の中で、私の中学3年間、『名門神戸一中』で過ごせたのはよかったと思っている。]]>

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