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雑感日記

カワサキの創成期のレースの話 

2012年10月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★朝早く、平井稔男さんから電話、今書いているブログTeam Greenの中でのレース話なのである。
平井さんの話はなかなかオモシロいのだが・・・・・・・・
平井さんはカワサキで彼より旧い人はいないと思われるほど旧い。旧明発時代から既に担当されていた。
レースの世界でも、そのド真ん中にいて活躍されたのだが、この世界に入って来られたのが、ちょっとあとなのである。
そんなことで最初の頃のことになると、私に電話が掛ったりするのである。
 
来月には東京で『二輪文化を伝える会』で、山本隆くんとカワサキの創成期のレースを語ることになっている。
日本でレースが何となく形に見え始めたのは昭和33年(1958)のMCFAJの浅間火山のアサマクラブマンレースあたりからだと思うが、そのころは未だカワサキは二輪の一貫生産にも入っていない。
カワサキのレースという記録があるのは昭和36年(1961)からである。小関和夫著カワサキ モーターサイクルズストーリーの中にその記述があることと、私自身の耳学問の結果なのである。
カワサキのレースについて、カワサキの中の人たちでこの時期のことを、耳学問でも喋れる人も少ないと思う。100%正しいとは言わぬが、記憶なども辿って年次ごとに纏めてみたい。
私自身は昭和36年12月(1961)から、単車事業部に異動があって、それ以降のことは日記が残っているので、結構正確に記録が辿れるのである。昭和41年末(1966)までの6年間、レース担当の最後の年次まで、カワサキの黎明期のレースについて語ることとする。
何日かに分けての記述になるが、あとで読み難いだろうからずっと続けての記述とする。
 
★1961年(昭和36年)
カワサキが二輪事業に本格的に参入したのは、この年からと言ってもいい。この年に明発とメグロを統合した販売部門、『カワサキ自動車販売』が東京神田岩本町でスタートしたのである。メグロの烏山。明発の金町は私は知らないが、神田岩本町の本社はよく知っている。カワサキの人でこの神田岩本町を知っている人は今は殆どいないと言ってもいい。
その年の朝霧高原でのMCFAJ第5回全日本モトクロスに、『東京スリ―ホ―クスの三吉一行、横浜カ―クの三橋実などがカワサキB7で6台、メグロで2台の改造モトクロッサ―を駆り125ccでは予選1組で2位、3組では堂々1位でゴールし、関係者を驚かせた』と小関さんの本に記述がある。
これはまず間違いない。明石の川崎航空機の所謂工場サイドでは、未だレース関係者はいなかったのだろうが、当時のカワサキ自販では広告宣伝を担当されていた小野田滋郎さん(フィリッピンの小野田寛郎さんの弟さん)や明石工場では井手哲也さんなどが個人的に、三吉や三橋と接触してレースをやっていたのだと思う。
今年7月、浅間火山レースを語る会が東京で行われた際、ヤマハの本橋さんから『カワサキのB7のモトクロッサ―に乗りました』とも『井手さん』のお名前も聞いたのである。井手哲也さん、今でもお元気でZ1会のゴルフでもお会いする。私の知っている限り、川崎航空機で最初にレースに関わられたのは、井手哲也さんだと思う。初期のレースには必ず顔を出されていたし、三吉一行くんなどとも懇意だったのである。
小野田滋郎さんとは、私は特別いろんな形でお世話になって、『三橋を50万でヤマハから引っこ抜いた』などという話も聞いていたのである。ただそのころはレースのレの字も解らない門外漢だったのである。
 
★1962年(昭和37年)
62年のMCFAJ の第6回大会では『三吉一行が決勝で2位に入って、カワサキ初の表彰台となった』と本の記述にある。この時のマシンもB7であったはずである。川崎航空機の営業部門にはレースのことなど殆ど聞こえてはこなかったのである。
B7のクレームなどもあって、単車事業はいつ止めるのか?などとも囁かれていた時期である。レースどころではなかったのである。この年あたりは、単車営業と言ってもほんの数人、今でいう品証のサービスマン3人を入れて、6人ほどの陣容であった。従って何でも担当していて、8月には、B8の発売準備などもやっているし、9月にはオープンしたばかりの鈴鹿サーキットに広告の看板の件で行っている。未だスタンドは土で、半ば完成という時期であった。少なくともカワサキでは一番乗りであったと思う。
この年の10月4日、鈴鹿サーキットで行われた日本で初めてのサーキットレースに、明石工場の生産部門の人たち中心の『レ―ス見学バス』が出たのである。この企画は中村治道、高橋鉄郎さんら生産部門の若手課長、係長で行われ、このレースを見て、カワサキのレース熱に一気に火がついたのだと思う。
これは私の想像だが、この企画を後ろで糸を引いたのは、兵庫メグロの西海社長に違いない。カワサキの影のレース推進者は間違いなく西海さんである。後レース職場をひっぱった松尾勇さんは元兵庫メグロの出身だし、エンジン以外カワサキの初期のマシンは全て松尾勇さんの手造りだったのである。
私は行ってはいないのだが、この時のレースで250cc優勝者が三橋実、350cc優勝者が片山義美と、後カワサキのレースと特にご縁があったお二人だったのである。
このことが翌年、兵庫県青野ケ原でのMFJ兵庫県支部主催のモトクロス出場に繋がる契機となったことは間違いない。
 
★1963年(昭和38年)
この年が、カワサキの単車事業の命運を分けた年だと思う。
B7のクレームなどもあって、この年の前半は、むしろ二輪事業からの撤退の方が雰囲気としては強かった。ト―ハツや富士重あたりもいろいろあったのは多分この時期なのである。二輪事業に進むべきかどうか? 川崎航空機本社はその判断を『日本能率協会』に」調査依頼して委ねたのである。これは販売網を中心に非常に大がかりな調査であった。
その最中に行われたのが、『青野ヶ原のモトクロス』なのである。
これは会社が企画したものではない。鈴鹿のレースを観に行った製造部を中心の有志、中村治道、高橋鉄郎さんなどが勝手に時間外にボランテイァでやり始めたレースなのである。車をどのように都合したのか知らぬが、松尾勇さんや何人かで作り上げ、ライダーも工場のテストライダーなど素人なのである。勿論予算などなくて、その時点では勤労部門や企画部門はヨコから難しい顔をして眺めていたのである。
営業部門の小野助治次長は応援のスタンスで、かって野球部のマネージャーの経験がある川合寿一さんをマネージャーに、営業部の金の管理などしていた私には『忍術を使って金を都合するように』指示されたのである。そんなに大金を出したわけではないが、残業のパン代ぐらいは捻出したのかも知れない。私のこのレースに関する関係はこの程度なのである。
MFJ兵庫県支部主催になっているが、支部長は確か西海さんだったから、レースそのものも創りだしたのだと思う。
 
 
5月19日当日はカワサキにとって天から恵みの雨が降った。水たまりがいっぱいで他メーカーの早いライダーやマシンはみんな水をかぶって止まってしまったようである。完全な防水対策を施したカワサキのB8だけが完走して、1位から6位までを独占した完全優勝を果たしたのである。
 これがカワサキのレースのスタートとして、語られている。
確かに、明石工場の人たちが中心になってやったレース、これを『ファクトリー』のレースというのなら、このレースがスタートなのである。
これを機に、工場サイドの士気は一気に上がったことは間違いない。日本能率協会のレポートにも末端の士気は衰えていないと、二輪事業再建の方にその舵が切られたのは間違いないのである。
一時は批判的であった企画や勤労部門の長まで一緒に記念撮影に収まる様を見て、カワサキ自販の小野田滋郎さんが『有頂天になって』と漏らした不満を私はよく覚えている。
 
これを契機に、カワサキのレース活動が一気に活発になった。レースマネージャーを務めた川合寿一さんがそのままレースマネージャーとしてライダー契約などがスタートしたのである。
カワサキのレースファクトリーとしてその中心となったのは、三橋実が主宰した『カワサキコンバット』で厚木基地を中心梅津、岡部、加藤などのメンバーが集まり、関西では神戸木の実から、歳森康師、山本隆駕ファクトリーライダーとして契約し、カワサキのチームとして活動を開始したのである。
そしてこの動きが本格的になっていくのは、日本能率協会が単車再建のための条件として『広告宣伝課』の専門組織を創ることを明示したことである。
単車再建を決心した川崎航空機本社は、本社開発費として年間120百万円の広告宣伝費を3年間二輪事業に投じてくれたのである。当時のサラリーマンの年収が50万円程度の時代だから、その金額がどのくらい大きいか想像してみて欲しい。
その広告宣伝課を係長にもなっていない私が担当することになったのである。普通ではとても遣いきれないような金額なので、そのうちの一部でレース費用やライダー契約の金額に充てたのである。その後も含めて最も潤沢なレース予算があった3年間であったことは間違いない。1年目は7000万円しか使えずに『君らは金をやってもよう使わん』と本社専務にオコラレタリしたのである。
この年がカワサキのレ―スの本格的なスタートになった年であることは間違いない。以降昭和41年までの3年間、私は黎明期のカワサキのレースマネージメントと広告宣伝担当となったのである。
 
 
(今日はここまでにする。明日はそのまま引き続いて、昭和41年度まで記述していくことにする)
 
 

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