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昭和2年生まれの航海日誌

慰安婦には大勢の日本人も居た 

2012年09月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「おじいさんは兵隊に行っていたから、慰安婦のことはよく
 知っているでしょう」と孫が話かけてきた。

 韓国の竹島問題に目を凝らしていたら、またぞろ慰安婦の
補償を引っ張り出してきた。

 この問題は、対日講和条約、日韓関係正常化で解決されている、
と信じた者にとっては疑惑を感じ、患わしい限りである。
 無法、貪欲、しつこい要求に耐えがたくなったものであろう。

 慰安婦の像をに日本の大使館前に建てたばかりか、米国内にも
建立していた。

 1993年、慰安婦問題は公正に論議された、と米議会調査報告が
なされている。米国とっても迷惑、不愉快なことだ。

 孫もこれらのことを弁えてのことだったと思う。

「うーん、お前も歳だし、今でこそ話そう」と言って、実際に見聞
したことを次のように言ってみた。

 1937年(昭和12年)支那事変が勃発した頃、満州には軍隊が
駐屯しており、上海の激戦後は次第に内陸に進攻し、長期戦の様相を
帯びてきた。

 その頃、多数の芸能人をはじめとして慰問団が海を渡った。
慰安婦が支那大陸へ行き始めたのもその頃だったと思う。

 作家 宮尾登美子さんの”序の舞”か対談を聞いたことがある
あるだろう。

 芸妓娼妓紹介業を営む人たちは、一旗挙げようとして,芸妓も
納得して行ったものである。

 そのいう集団の中には朝鮮人(半島出身者)も居たことはいた。
でも、今、韓国がほざいているような、強制的、その数20万と言う
のは根拠のない、いかさまである。

 それに、kusai kitanai koreaの3k は評判も良くなかった。

 兵隊もモノはよく見るし、好みがあるはなあ。






 20万人、その人たちを一体どこに派遣するのか、人間である
以上食料を欠かせることはできない。当時、戦闘要員の物資を運ぶ
だけで精一杯であった。ハズがない。

 戦争末期に餓死させたことを考えるならば、どうして20万人が
生き残れるものか、これは韓流タカリ算法である。

 日本の政治家、マスコミも売国奴的な発言が漢民族を助長させた。
官房長官 河野洋平
朝日新聞 植村 隆

 原告の弁護だけで、判決を聞こうとはしていないのと同じである。
 実情を詳細に調査していない。本も読んではいないなあ。
少数の慰安婦の補償ほしさの捏造した泣きことだけを...

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