メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

ZRX1200S城

利鎌山(とがまやま)城 

2011年12月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


 

            利鎌山城址
 
大変気に入りましたので、2週続けて登城しました。
 
日本城郭大系では
「城の由来は、建武年間(1334〜36)の湊川の戦で福田盛次、信次の兄弟は、
足利尊氏のもとで武勲与あげたことから、延文元年に備後の福田・永谷・今岡・
戸手・有地・柞磨などを与えられ、福田村市原に城を築いて移り住んだのが最初とされている。
以後二代信久・三代代盛雅・四代盛長・五代盛国と続くが、六代久重の時には西隣の有地で毛利氏旗下として勢力を拡大していた有地隆信としばしば争うこととなり、
弘治元年には隆信は約三五〇騎で攻撃した。

弘治元年(1555)といえば厳島合戦の年です。

これに対して久重は二〇〇騎で応戦し、久重の妻の奮戦などもあったが、ついに城は落ち、久重も死んで福田氏は滅亡し、城は廃城となった」
                                   とあります。
 
  城の説明板にも、有地氏により福田盛雅一族は滅亡となっています。




 
 
しかし、一族と思われる福田盛雅がこれ以降も備後国利鎌山城を拠点として活動し、後にその孫世代と推測される同名の盛雅が、毛利家臣として美作に進出。
医王山城で宇喜多家を相手に、戦いを繰り広げています。
 
後に備後福田氏は天正年間の後半に近隣の杉原、有地氏ともども転封され、
天正十九年(1591年)頃の「毛利家八箇国時代分限帳」では、福田少輔七郎が
備後国恵蘇郡(現・庄原市)、周防国、吉敷郡で軍役高166石を領しています。
 
とても350騎くらいでは落とせないようなこの地区最大の山城です。
 
麓の木野山神社



      木野山神社脇に登城路があります。

コンクリートで固められた道が配水地まで続きます。





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
落ち葉に覆われた道を少し登ると・

 
 
               尾根の分岐点に出ます。左に行けば利鎌山城です。
 
     土橋。やっと城郭部に入ります。
   道は後から付けられたもので、往時は尾根をつたっていたかも。










土橋からすぐの堀切。
尾根を完全に断ち切っています。

堀切底から見た主郭



         堀切底を移動し北方から見る。

      この北側には畝状竪堀群があります。

主郭上から堀切を見下ろす。

 
主郭
                       

 
城址板                                   

     主郭に副郭が続いています。  

 
副郭の東側も大きく落とされています。



ここから大きく落とされています。
まだこの先に主郭と同じ位の大きさの郭があります。
                                           続く。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ