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連載「バンコクカフェの女」(5最終回)
2024年04月25日
テーマ:連載物語
賞金と掛け金が手に入った。大金である。
賞金と掛け金を合わせた大金が手に入った三人は、勝利のたかぶりがおさまると、頭も心もおだやかになった。
「どうしようかこの大金を」と伊藤さんが口火を切った。
田村はもともと考えていたことだと言って応えた。
「伊藤さん、これでナマズ料理店を開くといいよ、ノックも手伝ってくれるだろうし」
伊藤さんにとっては生まれて初めて心癒える「勝利」で、追いつめられた自分を解放したのだろう、にこやかな笑顔で、ノックに話しかけた。
「ノックが赤帽子を育ててくれたおかげだよ」
「あたしには今しかないの、だから今いっしょに過ごしている赤帽子を大切にしたのよ」
「どうするの?」伊藤さんとノックが同時に田村をみた。
「まあ、伊藤さんのように『上善如水』、水のようにおだかに過ごすのがいいな、とりあえずベタの家に帰って乾杯しましょう」
「そうだな、乾杯だ、電話でタクシーを頼んでくるよ」
田村と、戻ってきた伊藤さんとノックは、すでに暗くなった外でタクシーを待つことにした。勝利の夜風は、ことのほか、気持ちよかった。
だが、なごみの空気が突然破られた。
五人の屈強な若い男が刃物をもって「金を出せ!」と凄んで三人を囲んだ。伊藤さんが「これは絶対に渡せない!」と怒鳴ると、五人は唸り声を上げながら襲ってきた。田村と伊藤さんは、体当たりしたり、足で蹴りあげたり殴ったりして応戦した。殴りあっているとき、ノックが「あんたたちはバンコクカフェの…」と、指さしながら大声を上げた。瞬間、ノックは「キャー」と絶叫して胸を押さえながら倒れ、うずくまった。見ると胸から血が吹き出していた。絶叫を聞いて、闘魚の「賭場」から大勢の男たちが出てきて、これを見て五人は散り散りに逃げ出した。
ノックはだんだんと意識が薄れ、血に染まったまま伊藤さんに抱かれた。やがて目を閉じた。その目から涙が流れていた。伊藤さんと田村が呼び戻そうと何度も何度もノックの名を呼んでも目を二度と開かなかった。
ノックは死んでしまった。永遠に言葉を交わすことが、笑顔を見ることができなくなってしまった。田村と伊藤さんはハグをしてお互い背を撫ぜながら、いつまでも泣いていた。
簡素な葬儀のあと、伊藤さんは田村に相談した。
「ノックには故郷には母親いるというから、母親に賞金を全部届けたいと思うのだけど…」
「うん、仲間なのだから、それがいい」
田村と伊藤さんは、タイ東北部のイサーンのちいさな村に住むノックの母親に、死んだノックが稼いいだお金ですといって「賞金」を手渡した。母親は何も言わず、涙を流しながら、いつまでもワイ(合掌礼)を続けていた。
帰り道、田村と伊藤さんは、町のレストランでビールを飲んだ。
「これでよかったのだよな」と伊藤さんが自問するようにつぶやき、続けた。
「ノックは自分が育てた赤帽子が勝ったのだから、喜んでいるよな」
田村は「そうだな、ノックの笑顔が見えるようだ」と言いながら窓の外を見た。
大通りの向こうの家に日本の桜に似た花が咲きこぼれていた。おそらく、バンコクでもよく見かけるインタンニの樹の花である。ほのかな薄紅の花びらの純情さは、日本の桜を思わせる。
「ノックも、田村も伊藤さんも、結局、いっしょに生きてくれる人をさがしていたのかもしれない」という田村に、伊藤さんは
「いっしょに闘ってくれる人だよ」
「ノックも、ほんのすこしの間だけど、いっしょに闘い、生きたのだから、よかったよ」と伊藤さんは田村に応え、ほのかな薄紅の花びらをぼんやりながめながら、考えていた。
「ノックの日本語はときどき日本人よりきれいだったな」
「ノックの髪の毛はクセ毛で、気にしてたな」
「そう、ノックの左の頬のエクボも気に入らないと言っていた」
「笑ったときの八重歯もだよ」
伊藤さんと田村は、ノックのことを、とりとめなく話しながら、ほのかな薄紅の花びらをじっと見ていた。
(了)
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