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連載エッセイ「祭りの犬」〈2〉
2024年04月14日
テーマ:連載エッセイ
姐さん、まったく「外国人」というものを信用していない。とくに日本人に対しては手厳しい。日本人の顔はタイ人に似ているところもあるが、仏心がない。
仏様に毎日、手をあわせないような人間は信じられるか、というわけである。
実際姐さんが日本人のぼくに、こんなふうに話かけてくれるまで、言葉の壁もあって、ゆうに半年はかかった。
タイ語はとてもむずかしい。タイ語には助詞がなく(前置詞はある)、動詞や形容詞の活用変化がないので比較的憶えやすいと聞いていたが、とんでもない。
タイ語は一つの言葉(単音節)に五つのイントネーション(声調)がるものもあり、これを無視するとまったくといっていいほど通じない。
たとえば「新しい木はあるか?」をカタカナで表すと「マイ マイ マイ?」となり、となり、あるいは「鶏の卵はある?」は「カイ カイ カイ?」と書くしかないことになる。これらの一つひとつの言葉をそれぞれ異なったイントネーションで発音しなければ、まったく通じない。それだけに長屋の人たちとの会話には、とても時間がかかった。仲良くなると、ありがたいことに、イントネーションの違いを「聴き分けて」くれるようだ。
姐さんは物識りである。脚の太いヒヨコは親鳥になったら、卵をよく産むとか、妊婦のお腹の上に赤ちゃんを乗せ、もしその赤ちゃんが片足で立ったら妊婦は女の子を産む、といった「伝承?」ばかりではない。瑣末な町の噂から市長のスキャンダルまで、いったいどこで仕込むのだろう、何でもよく知っている。長屋の連中は、よろずの相談を姐さんにもちかける。しかもあとあとまで面倒見がよいところから、ぼくが名付けた「姐さん」という呼び名がぴったりである。
姐さんの別れた亭主は極道の親分ではなく、地元警察の高官だった。この「権威」もあって、長屋の連中はみんな、一目おいている。
「タイ料理は辛いだろう。タイの犬はね、辛いものばかり食べているから、喉をやられちまって、ホンホンと吠えるんだよ」。ホスピタルがうまいこと茶々を入れる。
ホスピタルは市立病院に勤める二十代半ばの男。長屋では珍しく、高校を出た上に、医療関係の専門学校まで卒業している。
この国ではどうも、額に汗する労働を軽視する傾向があり、その点、ホスピタルは長屋のなかではいわばエリートである。ところが姐さんに言わせると、あいつは病院のシーツのように白い顔をしているから病院が雇ったんだということになり、クビにならないように毎日漂白剤で顔を洗っているんだ、とさんざんである。
なるほど色白、細面のハンサムな男で、その清潔なイメージから、ぼくは「ホスピタル」と呼ぶことにした。
「そういえば、ラオスでもホンホンと吠えるっていってたな」
焼き鳥の仕込みをしながら、ソムタムが話に加わってきた。
ソムタムとはタイの代表的な料理の名前である。東北タイからラオスにかけてよく食べられる熟していない青いパパイアを使ったサラダの一種で、漬け込んだ川魚や沢蟹を和え、焼き鳥やカウニョ(もち米飯)といっしょに食べることが多い。
彼の商売が屋台のソムタム屋なので、ぼくは彼を「ソムタム」と呼んでいる。彼は、ラオスとカンボジアに接するタイ東北部、イサーン地方の出身で、三十半ば。ホスピタルとは対照的に色赤黒く、眼光鋭いが、どこかお人好しのところがある。
姐さんはイサーン地方の人間は言葉が汚いといってけなし、ぼくには、日本人は金儲けがうまくて信用できないという。「袖振り合うも多生の縁」とでもいうか、仏に手を合わせる姐さんのことだから「何か因縁があるのだろう」と、ごくふつうに付き合ってくれる。
ぼくがタイの家庭料理がすきだといえば、姐さんは、金のない日本人もいるもんだとジョークを飛ばしながら、手料理のタイカレーをつくってくれるし、ソムタムがイサーンの民謡を歌うが、まるで親子のようにソムタムと手を取り合って踊る。
「ラオス料理もけっこう辛いし、やはり食べ物のせいだな、これは」と、ぼくにもホンホンと聞こえるよと面白がると、姐さんはうれしそうにうなずいて、はやく日本の犬の吠えるのを聞きたいものだと繰り返す。
姐さんは若いころ、「ミス・アユタヤ(バンコクの北にある古都)」に選ばれたこともあるという話で、そういわれてみれば、笑ったときに見せるやさしい目に、かつての「栄光」が残っているような気がする。
「それで商売しないか」
(つづく)
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