Polyglotに憧れて

図工の3と算数の3 

2023年11月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


図工の3と算数の3 前回、誰でも得手と不得手がある書きましたが、当然私も得手と不得手があります。私は小さい頃から今に至るまで、絵、習字、工作などが苦手でした。私が描いた絵は、誰が見ても下手としか言いようがないものだし、私が作った物(粘土で作った飛行機など)も、友達から笑われていました。字も下手で、今でも筆を持つだけで手が震えます。 ですが、それ以外の事は結構上手にやれていました。私の小学校では、3年生から5段階評価の通信簿が渡されていました。3年生の私の成績は、国語、算数、社会、理科は4で、体育と音楽が5、図工は3でした。図工については、上記の通り、私の絵や工作は自分でも下手だと自覚していたので、これ以上の評価などあり得ないと思っていました。 4年生のいつか、何学期か忘れましたが、算数で3がつきました。算数の3は残念でしたが、国語は5をもらったので、平均すれば前回と同じです。まあいいか、と思って母に通信簿を見せました。そうしたら、母は烈火の如く激怒し、無茶苦茶に叱られました。母にとって、息子が算数で3を取るなど絶対に許せない、ことのようでした。ちなみに、図工はいつも3でしたが、それで叱られたことは一度もありません。亡き母が何故それほど算数の成績にこだわったのか、今となっては確認しようがありません。とにかく徹底的に叱られたことを今でも覚えています。 もし、東大など有名大学の試験で数学が試験科目に入っていなかったらどうでしょうか。もし、絵画の実技などが必須科目となっていたら、どうなっていたでしょうか。きっと通信簿を見せる度にひどく叱られて、自信をなくし、落ち込んだでしょう。図工の授業がある日は不登校になっていたかもしれません。 実際には、算数で3を取ったのはその時だけで、以後は4または5を取っていました。図工は相変わらず3でしたが、そのことで周囲からいじめられることはなかったし、親から叱られることもありませんでした。むしろ、小学校時代、周囲から評価され、学級委員を任されたりして楽しい日々を過ごしていました。私の親だけでなく、世間では、算数などの4教科(国語、算数、社会、理科)の成績が重要視され、その他の科目(図工、体育、音楽)の成績が軽視されていたのだと思います。 小学校の授業に図工、体育、音楽の科目があったのには、それなりの理由があるはずです。本来なら各科目間に優劣はないはずですが、社会の評価は違うようでした。どうしてでしょうか?主要4教科は社会的に必要で役立つが、その他の科目は役に立たないといった価値観があったのでしょうか。 「主要4教科の成績はその他の科目より価値がある」というような価値観、あるいは社会通念は本当に正しい(あるいは望ましい)のでしょうか。 人は誰でも得手不得手があります。特に、幼稚園児や小学児童など、まだ幼い子供は脳のある部分の発達や成長が遅れていて、体がうまく動かせないとか、言葉がうまく話せないとか、算数が苦手だとか、漢字が覚えられない、とか、私のように絵や工作が極端に下手だとか、色々なタイプの子供がいます。それが個性であり、多様性だと思います。 個々人の個性に合わせて、得意分野を伸ばすとともに、苦手分野については丁寧にフォローし、育成することが理想だと思いますが、現状はそのようになっていないようです。 かつて、戦後から昭和後期にかけて、ベビーブームで子供が大勢生まれ、人口が増加するとともに、国全体が成長していたとき、労働力は豊富にありました。必要な水準に達している人物だけを選別するような(大学受験のような)システムでも問題なかったのかもしれません。 しかし、今後子供の数がますます減少していく日本社会において、そのような方式、考え方ではやってゆけません。生まれてきた子供全てを丁寧にフォローし、各人の個性に合わせて育成、教育し、全員が何らかの分野で活躍できるような社会を作っていく必要があります。 その第一歩として、科目間に優劣があるかのような考え方を改めましょう。成績の順位と優劣を結びつけるのをやめましょう。競争を否定しているのではありません。成績は自分の現在位置を知るためのもので、自分の得意な部分と苦手な部分を把握するために使うべきです。苦手な部分を把握し、改善するにはどうすれば良いか、得意な部分をさらに伸ばすにはどうすれば良いか。成績とは、このような自己診断の材料として用いるために存在するのではないでしょうか。

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