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雑感日記

カワサキ単車の昔話  8   岩城良三本部長 

2023年07月09日 外部ブログ記事
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★ 私自身は約40年間カワサキの単車事業に関係したのだが その間この事業のTOPに立たれた方は 山本福三・神武敏彦・岩城良三・塚本碩春 ・青野格・大庭浩・高橋鐵郎 と7人の方が続いて本部長の重責を務められたのである。 それぞれの本部長と私自身は密接に関係があったのだが、 一番印象に強く残っている方と言えば、3代目の岩城良三本部長だろう。  岩城さんと言えば私の川崎航空機の入社時には塚本さんが人事課長、岩城さんが総務部長をされていて、私の面接では第1問が塚本さんの「君は成績が悪いねえ」と言う意地悪い質問から始まったのである。そんな質問にも何ら臆することなく持論を展開し、「成績など悪くても会社の仕事など絶対に人には負けません」と言い切ったりしたのである。「ところで君は野球をやってたな」と話題を変えて下さったのが岩城総務部長で、私の面接はその後も延々と続いてほかの人の倍ぐらいの時間が掛かったのだが、あとで私の入社時のコネだった砂野副社長から「君は面接だけはよかったよ」と褒めて頂いたのである。 ただこの時に「人には負けません」と言い切った一言は、40年間ずっと私の胸の中に生き続けたのは間違いない。★その私の入社当時のお二人の写真だが 私はお二人ともご縁があって、後には本部長としてお仕えすることになったのである。  その岩城本部長はいろんな機会での訓示には「隣国の兵は大なり、その武器は豊なり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず?」で始まっていたのだが、ホンダ・スズキ・ヤマハとの厳しい企業競争の中で、自らの「指揮の一点」だけは絶対に譲らないという意志の表れでまさにTOPらしいTOPだったという印象が強く残っている。 私自身はまだ係長にもなっていなかった頃なのだが、 広告宣伝課を任されて、その予算・1億2000万円については額が膨大で、本部長直轄管理だったこともあって、 私は岩城本部長に直接承認印を頂いていたので、二人だけで話をする機会も多く、いろんなことを教えられたのである。 当時まだ「カワサキ自動車販売」であった販社の社名を「カワサキオートバイ販売」に変えられたのは岩城さんだし、 アメリカに販社KMCを創られて初代社長を兼務されたのも岩城さんなのである。 これがスタート間もないころのKMCのTOPメンバーで 左から杉沼・マセック・浜脇・岩城さんである。 ★そんな岩城さんは、国内販社のカワサキオートバイ販売の社長も兼務されていたのだが、 当時最大の市場であった東北6県の代理店の社長会に出席されて、 社長連から「仙台事務所を創るように」と言われたようなのだが、 即座に「創るようにする」と即答されたというので、これは誰が担当するのかが社内で話題になったのである。 直属の部長から直接その指名を受けたのだが、 どうやら岩城さんが私を指名されたようで、 岩城本部長は後にわざわざ私の席まで来られて 「ご苦労だが頼むな」と仰ったのである。 そんなことで昭和42年(1967)1月1日からは、「仙台事務所長」となるのだが、その肩書だけで事務所は勿論私一人が決まっただけで、他はなのもない白紙の状況から「仙台事務所」はスタートするのである。そんなこともあったので、私にとっては一番印象に残っている本部長なのである。   ★50万人フォロワーのいるツイッターです。?★雑感日記のEnglish Version です。★NPO ?The Good Times のホ―ムページです。

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