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仁保城址 黄金山 

2011年10月31日 外部ブログ記事
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仁保城址

歴史
仁保城はかつては島で、大田川水路の海への出入口をおさえ、広島湾北部を制圧する拠点でした。

連郭式の山城で、本丸・二の丸・三の丸からなっていました。

山頂からは、可部の山々から広島デルタ地帯の全容、宮島、大竹、江田島、能美島、呉方
まで眺望できます。


城の起源は不明ですが、室町時代後期には既に存在していたといわれます。

明応四年(1495)白井家文書によると白井光胤(みつたね)が安芸分郡守護・武田元信から
仁保島近海における海上諸公事の徴収権を安堵されています。

白井氏は安芸国に下向してきた関東御家人千葉氏の一族です。

当初,白井氏は安芸国の国衙があった現在の府中町に出張城を築き、そこを本拠地としていたようですが、戦略的な都合から次第に広島湾頭に近い仁保城を本拠地とするようになりました。

武田氏滅亡後、周防で陶晴賢が大内義隆を討つと、毛利元就はこれと決別、
安芸国における陶氏側の勢力を駆逐しはじめました。


天文年間に毛利方に包囲され落城した後の仁保城には、白井氏と同じく武田氏の警固衆であった
八木城主の香川光景と川内警固衆の東林坊が城番として詰めました。


弘治元年(1555)、厳島の戦いに先立ち陶方の三浦房清(越中守)の侵攻があった際には香川光景が撃退したと伝えられている(仁保島合戦)。

その後仁保城は三浦元忠(兵庫頭)の知行となります。

三浦元忠は吉田(現・安芸高田市)出身の豪族で、仁保元氏の娘婿となったさいに仁保氏の本姓である三浦氏を名乗ったと伝えられます。

黄金山北側中腹(現在の仁保中学校西隣)に菩提寺として観音寺を開き、この寺に元忠のものと伝える墓が残っています。

その後の廃城などの経緯については明らかではありません。


=今は城址というより黄金山として知られ、市民の憩いの場になっています

邇保姫神社 から見た仁保城址


テレビ塔のところが本丸です。
くねくねした道を登り山頂まで到着。売店まであります。


看板 


本丸に上がる途中。南方。広島大橋、海田大橋 坂町方面


本丸の説明



北方の展望

広島市 中心部


やや西方


宮島 逆光で苦しい


二の丸方を見る


西方からの二の丸 テレビ塔が建っています。



三の丸


ここにも説明がつけられています。ご苦労なことです。


三の丸 下の段


上段から宮島方


遺構と思われるものはありませんでした。
二の丸の上付近に古い石垣がありましたが、いつの時代のものかわかりません。



ベンチで休んでいると猫が集まってきました。
猫に会いにここへ来る人も多いようです。





邇保姫神社(にほひめじんじゃ)

保都比売神(にほつひめのかみ)が主祭神


社伝によれば、神功皇后が三韓征伐の帰途に当地で一泊し霊験のあった爾保都比売神を鎮祭した。

翌日出発する際に邪気祓いとして放った矢が現在地の山に当たったので、その矢を神体として
仁保島(現在の黄金山)の鎮守としたのが神社の始まりであるという。

昭和20年(1945)原爆投下時、社殿は爆風により傾いたものの倒壊せずに残り、被爆者の救護にも利用されました。

残念なことに2007年9月27日未明に出火し、本殿や拝殿などを焼失しました。
焼失した社殿は、建築様式から享保年間に再建されたものとみられています。

1996年10月、本殿・拝殿・手水舎が広島市の被爆建物リストに登録されたが、
焼失により現在は手水舎のみがリストに入っています。



復興がなされた拝殿

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