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敏洋’s 昭和の恋物語り

半端ない読後感:トルストイ作「アンナ・カレーニナ」その弐 

2022年11月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



人間の記憶というものは、どうにもならんもんですわ。それとも、わたしだけのことですか。「そうだそうだ、おまえさんだけさ」。なんてことは、なしにしましょうよ。「みんなそんなもんさ」とか「なげきなさんな、人間年とりゃ……」とかそんな風に、否定するかなぐさめるかしてくださいな。
実は、記憶ちがいに悩まされています。見せつけられて、います。読後の第二弾、ということになりますか。「アンナ・カレーニナ」を読み返しているとお話しました。なんですが、いまとんでもないことが頭に浮かんだり消えたりしているんです。「読み返し?」「他の誰かの記憶では?」
わたしが読んだのではなく、読んだ人から、そのあらまし・概略を聞かされたのではないか。戯言です、たわごと。たしかに、読んだんです。印象がちがうからって、ねえ、それとも、途中で放り出した?だけど、あの2人は最後には結ばれたんだし……。もしももしもですよ、それがちがっていたら、わたしはよんでいなかった、ということになりますかね。
ご説明します。上巻を読み終えて、中巻に入りました。哀れなリョーヴィンから18歳のキチイという可憐な少女を奪った、ブロンスキー(と、思えるのです)。<大変な金持ちで、頭がきれ、家柄がよく、侍従武官として輝かしい出世街道を歩んでおり、しかも魅力的な人間>キチイの母親のお気に入りのブロンスキーに対して、母親から見たリョーヴィンといえば。<一風変わった過激なものの見方をはじめ、高慢に根ざしている(とカノジョには思われた)社交界での彼の奔放さや、家畜や百姓相手の田舎での、(彼女の見解によれば)なんとなく粗野な彼の生活>
そしてまた、極めつけはこうだった。<彼が娘に恋して、一月半もせっせと通いながら、自分のほうから申し込みしたら沽券にでもかかわると心配しているかのように、ただなんとなくなにかを期待するように、ためらってばかりいて、年ごろの娘がいる家庭にへ出入りする以上、ちゃんと心得ていなければならぬことを少しもわかっていない点が、とりわけ気に食わなかったのである>*<>内は、木村浩氏の訳文です。
アンナ・カレーニナ――超絶美人、それを鼻にかける高慢さ、気位が高く夫を蔑むさまを隠そうとしない女性――だと思っていたのに、上巻を読み終えたいま、ちっともそんな女性には思えないんです。ひたすらに清楚であろうとする淑女であり、子どもを慈しむ聖母であろうとする慈母、アンナ・カレーニナ。真実の愛に気付き、それでも母であることを楯にする、アンナ・カレーニナなわけです。が、ブロンスキーという生来の遊び人にこころを囚われ、彼もまた真実の愛に身を捧げる男性たらんとする。アンナ・カレーニナ――愛に飢えた哀れな女性、そう思えちゃっているんです。

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